あぁ。あぁ、である。

一本目の記事を振り返ってみると、このブログがどんなブログなのか、をちゃんと書こうとしてしまっているではないか。ちゃんとしなくていいのに、ちゃんとしようとする。よくないクセである。難癖だ。とはいえ、その非に気づけているうちはまだいい。いや、本来であれば、あぁ、などと反省しないのが望ましいような気もする。

とにもかくも、こういう頭によぎるあれこれを自動編集(カット)することなく、つらつらと記録していくことが大事なのだ。できれば、なるべくは、日常のふとした瞬間に突如浮かんでくる違和感のような、心のしこりを文字として残していきたいとは思う。

タイピングしながら文字化することで、あれ、おれ、こんなこと思ってたんか、と思考を指先が追い越してくれるときがある。その機を捉えたいわけなので、四の五の言わず考えず、脳みそのどこかにある監視室なぞスルーして、指先に思考を乗ってゆく。ただそれだけでいいはずなのだ。

意図があると宜しくない。意図に塗り固められたものにワクワクはしない。花火のようにその一瞬だけを美しく見せるだけで、心底根付く花の種にはなりえない。意図を殺す、自然(じねん)を奔放させる。そいつができたらどんなにいいことか、と思い馳せながら、この文章はどこへ向かうのだろう。

そうだ、意図、で思い出した。

「こういうふうに事を動かしていきたいから、このように振る舞う/関わっていく」という下心が見えるとどうも萎えてしまうことを。人の精神性よりも何よりも、物事が進むか否かに重きを置かれていく、物質主義的な風景およびその風景づくりに助力する人間は、直接的/間接的のどちらであっても触れると胸クソわるくなる。

なんでこんなにも勝手なんだろう、なんでそこまで考えが及ばないのだろう、なんでああやって振る舞えるんだろう。そのコミュニティが小さかろうと大きかろうと、目の前に広がる世の中には、その意図から自分と周辺の人の身を守るための戦いがあって、めんどうくさい。

おたがいが持っている”前提”がズレているから、めんどくさくなるのよなぁ。あぁ、ほんとめんどうくさい。あぁ。

けども、めんどうくさいことの中にこそ、歯車の嚙み合わせを変えるための部品が隠れていることも確か。まー、真正面から向かい合って、一本相撲を取ろうとするならどちらにせよめんどうくさいのよね。あぁ。

あぁ。嗚呼。