「同じように見えるけど違う、けどその違いがわからないのは自分が無知だから。違いがわかるようになったとき、また一つ優しさのパーツを手に入れ、人間に近づいてける」
何でもわかりやすく、大雑把に、要約して理解する。そして、だいたいのことは同じようなものとして分類する。これが主流になりかけの社会において、ぼくらは人間ではなく、そのほとんどはロボットめいた存在なのだと思う。人間社会でなく、“ほぼロボット社会”の到来である。
自分はと言えば、ロボット化に抵抗しながらも、ロボットでなく人間が主となるサイボーグを目指しているような気もするが、定期的に心がメタル化されそうになる瞬間を何度も味わっている、なんとも恥ずかしい状態だろう。
世の中を鳥の眼のマクロでしか見れなくなると終末感がある。事細かく虫の眼でミクロに寄ったり、角度を変えられる身軽さと“死角”への意識が、人間としての生々しさなのかもな。そこには見たくないものもたくさんそりゃあるだろうけど、たやすく理解することなど到底できない多面的で複雑な人間や社会と向き合うことが生きることなのではないか。生きることには「わからない」ゆえに「むずかしい」「苦しい」も付きまとうのが当然で、わかりやすくしようとすれば、スマートで効率的なロボットの道を選ぶしかない。
とある動画で、養老孟司さんが「虫が一匹一匹同じものがいないように、人間も同じなわけがない。にも関わらず、その型に押し込めようとする。当てはまりにいこうとする」というニュアンスの話をしていた。そう、どう転んでも、全ての生きとし生けるものは、同じにはなれない存在なのだろう。水木しげるもなんか似たようなこと言ってたっけな。生きることに賢明な人ほど虫をじっと観察している(という法則はあるかも)。
さて、まとめ。
わからない何かを学ぶことは、人や社会の見方を変えてくれる。とりあえずのところ「自分が見えてないだけで、同じの中にも違いがある」というワンダーに気づかなくちゃ次に進めないのだけど。そうやって見えないものを見ようとし、調べたり、聞いたり、歩み寄る姿勢を持てれば、きっと一つずつ優しくなれる(と同時に過去の過ちにも気づける)。
そう信じて、生物学的だけでなく、精神的にも人間でいられるようにねばっていきたい。生きながらえていきたい。それ以下でもなく、それ以上でもなく。
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