数日間、家を離れていると、家の中の生態系が変わっていることに気づく。人間が“間”にいることで保たれていた猫たち同士の関係性は移ろい、なんだったら野良猫まで家に長居してるようで、それぞれのテリトリーもゆらぐ。

猫は猫たちだけで暮らしてるほうがいいんじゃないかと思いつつも、こっちの都合で最初から人間の生活に猫たちを巻き込んでしまっている。だからこそ、おれが家から抜けることは何かを意味するのだと出張のたびに思い知らされるのだ。共存の道を探り続けよう、そう思いながら、こたつの中に落ち、かぴかぴとなった小ぶりのうんちを片付けた。

跡と温度感

道といえば、「ミチ(道・路)」である。すまん、妖怪の話だ。

“妖怪が現れる場所”を考えるときには、「境界」という言葉がよく用いられる。時間と空間、ふたつの境界があるが、空間でいえば、「川辺」という陸と川の間、「戸」のように家の内と外をつなげる間、川や谷を隔てて二つの土地をつなげる「橋の上」など、境界線上にふわり、ぬらり、ゆらゆらと現れるのが妖怪という存在なのだ。

そして、「ミチ」も同じく、出発地から目的地までの間であったり、家と家との間だったり、つねに“間”にあることを余儀なくされる場所といってもいいだろう。

境界線にあるものとは、つねに移ろっている状態だからおもしろいと思っている。AかBという二極論ではなく、AとBの間のなかのグラデーションとして色づきながら、新たな視点を共有する。たとえば、「仕事」か「遊び」かと分けるのではなく、その間にあるものとして「仕事のような遊びのようなもの」はあって悪いわけでないし、むしろ、その揺らぎの中でだからこそ生まれるおもしろみは必ずある。

どっちか、ではなく、どっちも。

優柔不断と思われたり、立場があいまいだと怒る人もいるのだろうけど、どっちの良さもわかって、あきらめたくないから、難しいことをしているはずなのだ。どっちかにつくのは簡単だし、思考を放棄したいならそっちを選べばいい。自分にとって大事なことであれば、欲張っていいのが人間だとおれは思う。少なくとも、男か女か、仕事か恋か、勉強か部活か、都会か田舎か、とどちらかだけに選択を迫るような大人にはなりたくはない。

そうそう、糸井重里さんは間にあるそれを「どっちつかず」と表現していたが、本質的なことを身近な言葉に置き換えることにおいて、彼の右にでる人はいないぜ最高、と感じちゃった。

暗闇で満ちた未知なる道をそろりそろりと歩いてると、ふっと後ろから現れるのが、妖怪ミチミチである。ハッピーそうなミッチーマウスではなく。

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