「実はできること」について、二つ感じたことがある。

ありがとうの距離感

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一つは、「実はできること」って、実は本人ですら自覚してないことが多い。

たとえば、日本に住む人の多くは日本語が喋れることが当たり前すぎるので、海外に行ったとき、専門知識はさておき、「日本語を喋れること」自体が「実はできること」の一つだと意識できてる人はどれくらいいるのだろうか。むしろ反対にある、「アメリカにいるのに英語を喋れない」というネガティブな方を見がちなような気もする。

ぼく自身のことでいえば、バーテンダーとしてお客さまの話を「聴く」ことが当たり前だったから、それが技術が必要なことだと気づかぬまま、文章や拠点運営のような仕事をはじめたが、そうではなかった。「できて当たり前じゃん」が当たり前ではなく、もちろん環境にもよるのだけど「実はできること」として「聴く(話を引き出す、深ぼる)」が自分の中にあることを意識したのはここ2~3年のこと。

もっと程度の低いことで言えば、沖縄出身であり、チャンプルーがつくれることが「実はできること」だと気づいたのも20年数年生きてからのことだ。ただ母親のつくってくれた味を再現する、それだけで喜んでくれる人が、ぼくがチャンプルーをつくる場をおもしろがってくれる人がいることに驚いた。

自分が無意味だと思っていた事柄に、意味を見出してくれる人がたくさんいる。「実はできること」ってのは、自分よりも他人のほうが見つけるのがうまい気がする。逆にいえば、今やってる地域おこし協力隊のサポートというのは、その人が「こんなのできてもしょうもない」と思っていることも活かせるな企画づくりの壁打ちがほとんどだったりもする。

スポットライトの当て方(事実変わらねど解釈)を変えるのは、まあ編集的アプローチだよなぁと思いつつ。

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もう一つは、「実はできること」は、自分にとっては、「ありがとう報酬」よりも「貨幣報酬」に持っていく意識が強いということ。

今自分が稼いでるお金のほとんどは、「実はできること」からである。あまり自分が「できる」と意識してることよりも、実はできることのほうが省エネだと思っていて、“ライスワーク”としてはそっちのほうがいいなと思ったからである。

つまり、「自分の気持ち60%で働いても、誰かの満足度が100%になる」のを優先して、自分の気持ち100%で働くのは、現状にお金になるかわからない“ライフワーク”でいいや(まあそっからはじめてじっくり育てるでいいや)となっている。むしろ、自分の「120%いいと思う」の表現が「ありがとう報酬」のほうが尊いと思うからこそ、お金になるかどうかは気にせず、やりきりたいのだ。

中途半端が嫌だから、時間はかかるかもしれないが、その時間を確保するために、「実はできること」によりライスワークの単価を上げることを心がけている。「(自分からすれば)仕事してないけど(他人からすれば)ちゃんと仕事してる」という感覚を、うまい具合に雪だるまのように大きくするのが強いていえば30代のミッションとも言える。

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英語で考えると「実は」は「actually」とかに訳せるのか。表現的には「by the way」のほうが好きかもしれない。“道から逸れてる”ニュアンスは、「目的の周辺」にも通じるなと思うし。「by the way」 は「ところで」と訳しがちだが、「ちなみに」という役もでき、ぼくは日本語しては「ちなみに」が好きだ。昔、「ジャミーの『ちなみに』が口癖だよね」と言われたほどに「ちなみにアクティブユーザー」である。そういう意味では、ぼくとしては「実はできること」を「ちなみにできること」と訳し直そうと思う。言葉を考えるきっかけ、ありがたや。

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脈絡が全然ないのだけど、なぜぼくは「オノマトペ」への関心が強いんだろうな。正しくは、さっきオノマトペへの関心が「強い」ことに気づいてしまった。「うろうろ」「ゆらゆら」「けらけら」など、言葉のリズムと美しさ、文字として見たときのテンションUP、そして意味の豊かさ。パッと挙げるだけでいろいろ出てくる。ちょっとふかく考えてみたい。宿題。