停滞すると再始動するまでが長い。そんなの全くもって臨んでもないのに。体を動かそうとするけど、指令を与えるはずの脳みそが「ちょっと待って」と差し止めて、座り込んでぐるぐると考え込んでしまう。あるいは、「あれ、今、何について考えてて、何しようとしてたんだっけ」と忘却っぷりに注意がいき、自身の粗さがしにトピックが変わり、もう行動するどころじゃなくなる。そのくせ、考えるためのメモリ容量が少ないからすぐ疲れちゃって、休もうかとなる。何もできずに一日が終わる。それが続けば、”停滞”という現象になる。再始動になるのもいつやら。

だからだろうか。「考えて、書く」というのを意識的にやらなくなったのは。その姿勢でやろうとすると、停滞が始めることが目に見えてるから。経験から、こういう未来予知能力はかなり高くなった。だから、「考えずに、書く」であり、「書きはじめることで、考える」であり、「兎に角、書け」という指令なのである。

やるべきことをどうやるか、その内容についての悩みではなく、そもそも、そのやるべきことができるのかできないのか、という問題なのだ。むしろ、内容については一度スイッチが入ればいくらでも思いつく。そのスイッチは、だいたいが対面で人を巻き込む/人に巻き込まれるという状況をつくればどうにかなることも分かっている。なるべく、そのように仕事も組むようになった。とはいえ、とはいえだ、一人になったとき、事を進められないのはやっぱり困る。未だに困り果てている。どうにかならんかねぇ、とスリムクラブ内間のように嘆いている真っ最中なわけですよ。

明日は、できるだろうか。たぶん、できないのだけど、それでもアンコントローラブルな我が身と付き合っていかなけりゃいけないんすよ。どこまで、潔く、前向きに、自分を捨てられるか、諦められるか、認められるか、ただそれだけのことでしかないんだろうけど。

ほんと、制御不能なものを不能としたうえで機能させる術をさぐらなくちゃだわ。