「若い」とか「老けてる」の形容詞にまつわるイメージというか、常識に囚われちゃってるだけのことも多いんじゃいないだろーか。

足がでちゃうタイミング

「派手な色で髪を染めてる」から「若い」とか、「白髪が多い」から「老けてる」とか、「平日のこんな時間帯にうろついてる」から「(学生だから)若い」とか、8割型の日本人は、日本という国の一般常識に当てはめて、人を判断しようとしている。それはぶっちゃけ視野が狭い(物や人の見方のレンズの選択肢が少ない)んじゃないかなぁと思ってしまう。

年をとったら花鳥風月を愛でるようになる。そういう「老いあるある」があるけど、そこに当てはまるように暮らしていくのって、一つの枠に納まりに向かってる恐怖がある。0.1mmのズレのない同一の豆腐が大量されてる工場を思い浮かべてしまう。本来はどろどろでどんな形にもなれるはずなのに、そんな型にはまりにいっちゃうから、結局は納まりのいい形になる。恐怖というか、なんだかつまらない。

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動かしはじめちゃって、見せちゃって、緊張感が出てくるから、背中を押されたように前に進める感覚むっちゃわかる。結局、背中を押すのも自分、押されてるのも自分、という不思議な構図ではあるのだけど。そうでもしないと動かない自分を動かすための、環境変化のスイッチを押すのも自分でしなかなく、待ちぼうけしてても変わらんものは確実になるよなぁと。

ぼくの場合、緊張感に加えて「羞恥心」も重要になってくる。人に見られるものだから、ブラッシュアップに力を注げる。一度公開して、うわああぁ何これツッコミどころ満載じゃん、と恥ずかしくてしょうがなくなるけど、「次はこうしよう」「あの部分は試せそう」とか羞恥心の眼が拾ってくれる粗と伸びしろが必ずある。

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10月からnoteを再稼働させている。定期的に更新しつつメンバーシップを試す。とりあえずフォローを年内に1000までは伸ばせそうな予感。「暮らし」のことと「仕事」のことを分けながら書く。で、書き分けたうえでの更新ペースを上げられるようになったら、次はメルマガだ。そうです、そうなんです、これらはFacebookをやめるための準備でもあります。

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