「もっぱら、自分で自分を助ける方がいそがしい。いろいろ考えた末、どうやら、生活苦の元凶の一つが家賃であるという結論にたっした。この家賃というのは回虫みたいなヤツで、わが生活のエキスをすいとっている。まるで、家賃を払うために働いているようなものなのだ」

p197-198『ほんまにオレはアホやろか』水木しげる

ふと読み返した一冊にはそう書かれていた。そして思い出した。おれが東京という地以外の選択肢を考えたのは、水木しげるのこの言葉に触れたからじゃなかったか。無論、いちライターとして「移住」というテーマでいろんな話を日本各地で聞いて回っていたこともあったのだろうけど、決め手の一撃となったのは、やはり水木しげるだったのだ。

脳内ピン

「リテラシー(受動)ではなく、コンピテンス(能動)を」という話は、自分が関わる地域の場づくりにも通ずるなぁと思った。「(地域に)ないもの」を、だれか提供してくれるのをただ待つというよりも、ないなら自分でつくっていこうと思考と行動がひっくり変えることを日々めざしている。

今の老人世代は、お金もあって、動ける人もたくさんいた時代を経験してきて、何か地域で困ったことがあったら「行政がやってくれた(やるのが当然)」という記憶があるせいか、基本的には「待ち」の人が多い印象を受ける。でも役場が、地域が、社会が変わるのをずっと待つよりも、自分から変わったほうが早いのは確かであり、こっちから仕掛けちゃったほうが暮らしの中の(実験という)遊びは断然増える。

受動から能動へ。サービスの消費者から生産者へ。そのゆるやかな移行を手助けするのが、自分たちがかかわる場の意味と意義なのだとつくづく思う。そして、何かを提供する側になると、どうしても自分が何ができるのか、何をしたいのかと向き合わざるをえなくなる。そのふかく考える時間を、無理のない巻き込みで半強制的につくっていけるか(選べるか)どうかが大事なんだろうね。

「急ぐことは、死につながり、ゆるやかに進むことは、生を豊かにする」

アフリカのピグミーの言葉にはそうある。受け取る側だけで進むと急いでいろんな近道を求めるだけの暮らしになるけど、生み出すことに目をやれば自己を見つめ注ぐべきゆるやかな時間を見い出し緩急ある暮らしになってゆく。

そうじゃないかなぁ、と、しばらく思うことにしてみよう。

ちなみに、変化は「へんか」じゃなくて「へんげ」と読むほうがなんかゾクゾクするんすよね。なるべくはそう読む人生でありたい。

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