わが家にいることにこだわるなら、晴れよりは曇り、曇りよりは雨の日に過ごすほうが好ましい。

しとしと、ぴちゃぴちゃ、ざあざあ、強弱にかかわらず、古い家の戸や壁をすり抜けて聞こえてくる雨音は不思議と心を落ち着かさせてくれる。情報過多で枝葉のことばかりに気をとられがちな時勢で、自分という人間をつくる世界樹の根っこに語りかける時間を、音が演出する。

また、家の庭にある緑の数々も晴れで照らされるよりも、水で濡らされるほうがやはり色気がある。ときどき、猫たちと窓から外を眺めるが、彼らもその妖艶さに気づいてるのかもしれない。

雨の朝には、寝起きにまず台所へ寄り、ティファールのスイッチを入れる。それから洗面所へ向かう。顔を洗い、寝癖をお湯で溶かしたあとにタオルで拭き取りながら、台所へ戻る。気分と在庫状況によるが、最近は豆を挽くのに心が向かないので、大量買いしてたドリップパックを取り出し、適当に選んだマグカップの上にちょこんと乗せ、ケトル型のティファールからお湯をちょびちょび注ぐ。最初は蒸らして、それから少しずつ落としていく。美味しくしたいとかそういう気持ちは一切ない。ルーティンを通して、気持ちを整えていくだけの作業なのだ。そうやって落とされた(けど味わわれることのない)珈琲を持って、作業テーブルへと向かう。さて何からしよう。メールチェック、読書、作業ノート整理、書き物、何はともあれ、読むか書くか。その前に動画リンクを押した日には、朝から脳みそがバグる。そうすると、鬱々としたまま夜を迎え、不安を抱えて、翌日を迎える。そういうのはご勘弁。

今日は、案の定、おそろしくも動画からはじめてしまった。NHKオンデマンドで『星新一の不思議な不思議な短編ドラマ』をなんとずるずると4話も観てしまった。物語を読めない自分が唯一小さい頃から楽しめたのは星新一のショートショートだった。そのドラマなのだから、当然満足度は高いし、新たな問いと企画のヒントを掴めたような気もする。特に『地球から来た男』の恐ろしいような笑えるようなコント観は堪らなかった。さて、しかしながら、やろうとしてたことを1gも取りかかれてない後ろめたさは、鬱々とした感情をぐいと引き寄せる。どんどん積み上がっていく作業にもう明日のこと来週のことをシュミレーションし、心臓がバクバクする。だったらすぐに動き出せよ! と自身に喝を頭では入れられるのだが、身体は動かず、ぼくの言うこと聞かないなまけものの脊髄にまた不安を煽られる。なぜ他の人は「やれと言われたことを、やらなくちゃいけないことを、すぐに取り掛かれるのかしら」と。コップの中にある透明な水に、絵の具が流し込まれ濁っていく状況が、ぼくにとっての不安。コップに中の状態が澱んだまま過ごす夜はやはりしんどい。できない、という反省だけで一日が終わる(ブログでもなんでも一本書き上げておけると反省の念は幾分か薄まるので、ぼくにとって書くことは告白すべく「懺悔室」に立ち寄ることかもしれない)

こんな日を一週間のうちの半分近くは過ごしているんじゃないだろうか。暮らしとは、うまくいかないものだ。ただだから毎日実験の面白みはあるし、人間適応していく生き物で慣れてしまえば、まあしょうがないか、と事実の捉え方と対処がうまくなっていく。退化なのか、進化なのかはわからない。けど、生存戦略的に無意識的にとるようになった変態なのは確かだ。明日はどんな日が過ごせるのだろうか。

毎日がギャンブルである(ギャンブルの中には戦略も論理もあるのだろうから、もがけるだけもがきはする)。

そうそう、「小説を読むことって他者の視点を想像することにつながる」という話、おそらく、いとうせいこう・星野概念の『ラブという薬』に出てきた対話の中にあったような気がする。ただ、「小説を読む」よりも「小説を書く」ほうがより想像力を発揮するんじゃないかという話もあったような。ふと、また星新一の作品が読みたくなったので、そろそろドロンします。

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