毎月1週間ほど東京にいると言いながら、3月はサボタージュしていた。

2ヶ月振りの羽田空港は2月に来たときと受ける印象は、まったく違うものだった。正しくは、事実は変わらないが、感じ方が変わったというもの。

マスクをしている人は相変わらず多いのだけど、「3月に“任意”とかたちが変わったはずなのにこの様子なのか」と肩透かしをくらった気分だった。米子空港から羽田空港に移れば、マスク率がだいぶ変わるだろうと予想していたものが大きく外れたのだ。ほとんどの人がマスクを着けている。地方も都会も状況は同じである。

花粉が終われば……という時期も過ぎたなか、「まわりがまだマスクをしてるから」外しにくいのだろうか。批判する気はまったくて、日本人の集団心理の(自由研究的な)面白さを感じながら、ぼくは滞在拠点の武蔵境に向かった。

事務所に荷物を置き、近くのカフェでweb打ち合わせと作業を終えたのちに、吉祥寺へ向かった。都内にいるときは、毎日、映画か寄席に行くようにしている。その一環で、会員になっている吉祥寺のアップリンクへ。平日は1100円で映画が観れる気軽さがうれしい。『シン・仮面ライダー』鑑賞。金曜夜、席はまばらだが、ミニシアターであるのと、公開してからの時間を考えると、集客してるほうなんじゃないかと思えた。

作品は、仮面ライダー初期にあったツッコミどころある昭和的演出と、それに相反する令和に映画をやる意味としての背景設定や(意図的に”崩した”のか?)3D技術のバランスへの葛藤を感じた。ときおり、エヴァのような複雑な世界観(庵野節とでも言おうか)もあったような気も。

さて、鑑賞後、松屋で牛丼でかきいれて、商店街を少しぶらぶらしてから、久我山でよく立ち寄るバーへ。そうか、4月になって、すでに卒業していたようだ。バイトの子が入れ替わっていた。酒をつくる技術があるわけでないが、お客さんをおもてなそうとほとばしる熱量を感じる好青年だった。こうなると、彼がどう変わっていくのか、通う楽しみが増える。店主と少し世間話を挟むなか、ぼくはこう答える瞬間があった。

「人の顔が見えるよろこびってありますよね」

羽田空港ではあまり感じなかったが、吉祥寺の街を歩いて、よーく観察してみると、ちらほら顔が見える人々がいた。わりと若者が多かったか。物理的に「顔が見える」だけで、その街の表情も感じやすくなる。マスクばかりで生きてるのか死んでるのかよくわからなかった吉祥寺という街が、生き生き動きはじめてる印象を受けた。あと単純に、人の観察&推理(どうして今ここで過ごしてるんだろう?を考える遊び)が好きな自分としては、推理材料が増えるのはありがたい。人間の業は顔に現れる、と信じてるぼくにとって、顔という記号はなくてはならないものなのだ。そう、だからこそ顔が見えるだけで嬉々とした気持ちになれる(と気づいた)。

この雑感は解釈でなく「Don’t overthink, feel more.」の部分であってほしいと願う。

One Comment

  1. Pingback: 自分のなかに残す解体の余地 | yeri.me

Comments are closed.