急にしんみり冷えるようになった。もうスウェットなんか履いちゃってるし、その上に乗っかりすやすやと眠る猫たちのホッカイロ的温もりにほっこりする時期である。この感覚がいつの間にかぼくの「秋がきた」になっていた。
「華木」は、もはや一つの植物のような印象がある。もしくは、だれかの名前か。そういう違和のある言葉を見つけると、紐づく言葉をついつい調べ“ちゃう”わけで、言語に興味関心ありまくり人間だと自覚する今日この頃だ。
「10年」という響きでふと思い出したのは、「10年前にやりたいと思ったことを、10年越しにやろうと今こそこそ、いそいそ準備を進めてる」という事実。やりたいと思ったこと、やると決めたことって、意外とそのはじまりがいつだったかを覚えていない。「今やろうとしてる」のは突然ふいにその感情が温泉掘り当てたように湧いたわけでなく、「昔からずっとやろうとしてた」を温めていただけor時期を窺っていただけのことも多い。昔から考え続けていたことを今思いつたかのように振る舞ってしまっていたとしたら、初心は完全に忘れてしまっている。もの悲しい。へんなカラクリというか人間…いや自分の性である。
つい最近、京都のとあるスペースに立ち寄り、かるく雑談してると、「ぼくらみたいな人間は、時が止まったタイプの人間だよね」と投げかけられたのだった。そう、加齢によるライフステージの変化に合わせて、考えてることもやってることもそりゃもちろん移ろってはいるのだけど、ずっと変わらず考え続けやり続けている不動のものがあって(それはライフワークとおそらく言えるもので)、だからなかなか老けにくいというか、若々しさを保てちゃっているんだろうよ。ぼくの10コ以上も年をくった人の表情と、その口からこぼれる「時が止まった」論には妙に納得したのだった。
客観が大事だとすれば、自分の見た目は年齢よりもずっと若いのだな、と認識できるようになった(若く見られるのはナメらてるようで一瞬心臓はピキっとなり、年相応に見られることがやっぱり理想なのだけど)。多くの声をふり返ってみると、今のぼくは25歳前後に見えるらしく、なんかそれも「10年」という数字を意識させられる。はて、ぼくの止まった時間は「10年越しのやろう」をやることで、また動き出すのかしら。気になっちゃう。
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