ただ見えてないだけで、いろんなものに支え、囲まれながら、ぼくは暮らしている。そんなの当然じゃん! と頭で分かってても、目の前の物事に対してそれをまるでわかってないかのような反応を見せることがある。頭で分かったこっとを身体で分からせるのにも訓練がいる。時間がかかる。気づいてからが変化を待ち遠しく感じ、ある意味、しんどい期間なのかもしれない。
地域のことに置き換え、ふと考えてみると、今ここに自分が暮らせている自体が未知に満ちてる状態だと言える。つまり、自分以前の人たちが今の家や土地を守ってきたからぼくはここで暮らせているわけで、とはいえ、ぼくが暮らす以前のことは知ろうとしないとずっと知らないままで終えてしまう。
自分の意思で、選んでこの地にきた、という主体性はもちろんあるが、それ以上に、その意思をかたちにするための家と土地があったことを忘れちゃいけない。もし地域に自分の好きな風景や食べものなどがあったとして、それを残してきた人たちに思いを馳せられるか。あるのが当たり前だと思っていないか。なんなら、自分が情報発信したり活用することで、「地域資源を使ってやってる」と荒ぶってはいやしないか。
ギブアンドテイクなどというが、ぼくらはその地で暮らす以上、最初にだれかが残してきたものをすでにテイクしている。だったらルールに則り、まずギブできることから考えたほうがいいんじゃないか。テイクした基盤をもとにさらなるテイクとして、しょうもない金儲けや、うわべだけの「地域のことやってます」顔されても少し困ってしまう。ギブの精神がないなら、別にここじゃなくていいじゃん。
見えないだけで実はいる・・・・・・をお化けの話をするような事と片付けちゃいけない。“それ”が見えるように地域のことを学び、地域の人と話し、聞き続けるしかない。見ようとしなければ、決して見ることはできない。これについては、もはやただの意思の問題でしかないのかもしれない。
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