いつもは、昼過ぎに起きるのだけど、土曜日だけは午前中に起きる。午後からカフェ営業があって、それで一日が潰れるので、午前中にデスクワークをやっつける。頭脳労働2~3時間、肉体労働12時間、土曜日が一番動いてるなぁという日なので、快眠デーでもある。

目が覚めて、机に向かおうとすると、モグラの死体が人工芝生の上に献上されていた。おそらく、モズかミソであろう。口が半開きになって、最後びっくり死したことが垣間見える。二本指で足をつまんで、外の草木の多いところに放り投げた。

この日記の返信できない1ヶ月は、新しいことに慣れるのに必死だった。毎日noteを書けるようになったタイミングで、毎日ポッドキャストを更新する習慣をつくり、それができて週1本のYouTube動画をアップといった新たな習慣づくりにも挑んでいた。学校の課題と企画に追われ、英語やカクテル、妖怪のちょっとした定期的勉強に、かつてないほどのルーティンが組まれようとしていた(まあ言ってしまえば、おまえのさじ加減案件なんですけど)。

極め付けは、毎週同じような時間にお店に行くという習慣だ。金曜は本屋に、土曜はカフェに、と身体の置き場が決まったこと。これに加えて、隔週にはなるが、水・木あたりが新設する塾の日になりそうである。気分屋なので、「なるべく決めない」という方針できたつもりが、びっくりするほど、固まっていく。しかし、固めたなかでも自由度の高いゆるみを持たせる調整努力はしており、そのおかげで、休もうと思えば1週間は休める(店の基礎づくりと他スタッフとの連携)ようにはなってきた。

この4月からの積み上げによる新たな変化でもある。しかし、来年3月までの過ごし方がだいぶ見えてきたのも事実で、あとは反復、反復である。そのなかで、確実な変化の確認としても、資格だとかちょっとした賞だとか、評価されるものに手は出せたらと思っている。

あ、そうだ、この1ヶ月の間、人生で初めて起こった感情がふいに「死のうかな」と思ってしまったことにある。ほんと1度だけなんだけど、心にその言葉がなぞられた瞬間に「いやいや」と突っ込む冷静さはちゃんとあって、「猫たちおるしな」という気持ちがあることを確認できた。

土門蘭さんの『死ぬまで生きる日記』を興味深く、去年読んでいた。いつも「死にたい」と思っている作者の気持ちがまったくわからなかったからだ。つねにダウナーな気持ちで暮らしてる自分でもそこまでは掴みきれなかったわけだけど、予期せぬ感情が湧いてしまったわけだ。でも、自分のことだとしても、やはり未だにわからない気持ちは変わらぬまま。

1週間いろいろとやること、毎日のように自分で決めた締切のこともあるから、死んでる暇がなかった。何もしてなかったらもしかしたらくたばっていたかもしれない。そう考えると、習慣が死を乗り越えさせてくれたと言える。イチローのルーティン最強説を実感中。

3-4月あたりが鳥取きてから一番しんどい! という感覚は自覚していたが、じつは、今が一番きついのかもしれない。自分のことなのに、自分が一番わからないもんだな。疲れってのは、やはり、憑かれであって、突如現れるのか。厄介ではあるけど、まあ、それはそれで付き合っていってやる。しかし、「(55までは)死んでたまるか」は圧倒的に保ちたい。

デバフでバフに対面する

間隔が1ヶ月ほどあいたことについては、なんら特に思っていない。さっきの話でいえば、「交換日記」というプロジェクトにおいて週に1回ほど交換が行われていたのが実は異常な熱状態で、それが今回でちょっと平温になったようにも思う。とはいっても、おれも人間だから2回くらい「今回はためるなあ」と思ったけどね。笑

平温になりかけのところ、1時間ちょっとで返信してしまってるのが、また異常への道に戻りかけてて申し訳なさを感じてます。笑 ペースについては細かく考えたことなかったけど、「書きたいときに書く」がやはりいいなあと思ってて、それは最近ラジオで社会学者の宮台さんが言っていたギリシャ的な何かなのだと思う。ぼくらはセム族的になってはいけない。まあ、ならないと思うのだけど。

だらける、言い換えると「息抜き」とも言える。今月は本を買うのを抑えたいから、毎週書店にいっているのを散歩とか、別のものに変えるのもありかなあっと。書店楽しいんだけど、頭を回転させているのには変わりない。あ、でもこれが自分なりの息抜きなのかなあ。

ぼくはなんでだらけたいのだろう。たぶん、やってて、グギギギギというめんどうくささを感じるからだろう。「やってる感」があるものが苦手なので、それを排除しようというのが20代後半からの意識となっていたはずだ。

そして、逆にいえば「息抜き」が苦手なんだよなぁ。息抜きしようと意識したことはなかったと思う。進めたいことのペースをつくるための「間をおく」ために他のことを差し込むなんていうことはあるけど、それが息抜きになっていたのだろうか。

息関連でいえば、たぶん、自分が「息をするようにできること」さえできていれば、だらけようとも思わないし、息抜きもおそらく必要ない。今学校で取り組んでいることや、お店の現場で起こっていることは、まさに息をするようにできていることだと思う。そういうのをもっともっと増やしていけたらいいんだよなあ。

そんなところか。日記をひさびさに書いてて思ったのが、不思議と感情の乗りぐあいがいいのがこの場だということ。むしろ、ここをサボっていたのが不調の原因だったんじゃ……。やっと漕ぎ出せたらので、勢いのままに、また書きます。

p.s. 本とは別のところだと、山田五郎のYouTubeがおもしろくて結構みてます。世界史でサッと単語して学んだだけで、よくわかってなかったルネサンスやゴシックのことが掴めたり、まじでこれが教養だなぁと感じることも多くて。舌ったらずな口調もなんかいいですしね。

マグリット回とか、前半は自分が文章として突きたいテーマについて、後半は画風の変化と人の晩年性について考えさせられ、前々から気になっていたのに30分以上ある動画ってことで手を出しそびれていた自分に「もったいないぞ!」と強く言ってやりたくなる内容でした。