そうだ、根っこは、土に隠れて、本来見えないものである。

根っこの産毛

特に、自分の根なんて、足元すぎて見えるわけがない。たとえ、自分が根と思っていても、じつは根じゃない可能性だって大いにある。つまり、自分一人の自己完結では、決して自分の根を見ることができないのではないだろうか。

だから、ぼくらは人と関わっていく。

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仕事でも、仕事を差し引いたとしても、自分が関わる人の根っこに何があるかは気にかけるようにしている。いっしょに進めていくことが、どうせなら、その根とつながる枝であり葉であってほしいと思うから。

「見えないものを見ようとすることで妖怪がそこに現れる」と水木しげる氏がいうように、その土をかぶって見えにくい根をぼくも見定められるようになりたい。ついでに、その本人の言語化するお手伝いまでできたら最高だ。見えるからといって、必ずしも言葉にできるわけではない。

そう、世の中は、役割分担できるものたくさんある。「すべてをオールマイティに独りでできるようになりましょう」「そんなことで他人を頼ってはいけません」。そんな思考に囚わると停滞するものが増え、人によっては停滞したものを負債として引きずりながら暮らすことになる。しんどさ、生きづらさ、などメンタルギャングな輩の温床になる。

「一人」にこだわると、理解が鈍る。

見えないものを見ようとするために、「一人で」を手放してみる。

去年書いていた日記を読み返すと、ハチナナハチハチのときの文脈とは違った、文章の重さを感じる。いい意味で、「できる自分を信じない」ことができるようになった。言い換えれば、「できない自分を信じる」力がついたのだろう。受け入れられるものが増えた、というよりも、受け入れないと次に進めないという明らめと言えるか。

低空飛行。この言葉を20代からずっと好感を覚えている。飛んでるかどうかわかりにくいけど、ずっと地につくことなく空を飛び続けていく。そうやってうっかり無頓着で、無意識だった自分を意識化していく。これからもゆるかに続けられるものを選ぶだろう。だけどぶっちゃけその繰り返しだけには飽きていて、空港でその離陸を見送るような大きく高く飛び立つようなものもそろそろあってもいいんじゃないかと思うのだ。

そう思う自分がいることに、気づいてしまったぼくである。気づくとうれしいんだけど、嗚呼、つらいのね。

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