上戸彩にファンレターは驚いちゃったけど、ぼくは川上未映子に送ろうとして書きかけた手紙(ようはあれはファンレターだった)があったのを思い出せた。あれ、中途半端に終わったから、ちゃんと一から書き直してみよう。
『オレンジデイズ』は当日付き合ってた彼女が好きだったらしく、一緒に下校するときによく離れてくれていた気がする。にもかかわらず、ぼくは一度も観たことはなく、あのときの二人の“距離”は今になってやっと気づく。
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向いてるかもしれないのにやってないこと、って案外たくさんある。
学生のころは、ずっと球技をやっていた。小学生から大学生にかけて、バスケット、野球、アメフトと大きさと形は違うが球を追っかけるスポーツばかりやっていた。団体スポーツだし、そもそも不器用だしで、「向いていたか?」と問えば、おそらく向いてはなかっただろう。
それとは別に、中学時代には、陸上・駅伝もやっていた。部活としてはない学校にいて、大会前の季節になると招集されるシステムだった。運良くどちらも選手として参加できた。というか、中学生のころは走ってばかりだったのが利いたのだろう。朝起きて走って、部活が終わったら走って、やたらに走っていた。当時は野球をやっていて、ピッチャーでもあったから、やたらに走っていたのだろう。きっかけは、野球。さらに野球のきっかけは、あだち充。『タッチ』の世界観を脳内にインストールし、ひたすら走っていた。だから、陸上も駅伝も大会に出られたのだろう。
どちらかといえば個人競技で、身体のみを使うこのスポーツ、今思えばめちゃくちゃ向いていたんじゃないかと思う。高校時代、2年で野球部を辞め、どうしようかと考えた時期があった。そのとき、同じクラスの子から陸上(駅伝)部に入らないかと誘われた。高校のときも自主練で0限目前(進学校だったので1限目前にも授業があり謎に朝が早かった)に学校にきて、校庭でよく走っていたのだが、そのとき、よく見かけていたのが陸上部の先輩であることは知っていた。当時売れ始めたばかりのオリエンタルラジオ藤森のような特徴ある黒ブチメガネをかけており、印象的だった。そんな先輩がいる陸上部に、結局のところは、入らなかった。おそらくビビってしまったのだろう。いつも眺めてる先輩と同じようにトレーニングするのか、おめぇついていけんのか、と。
それからしばらくして、大学に入ってからアメフトをはじめるのだけど、このスポーツもやたら走り練が多かった。1年生ながら、わりと練習にはついていけている。沖縄という僻地で暮らし、井の中の蛙意識は強く「自分なんて…」と過小評価していたが、意外とぼくは体力があるほうだった。細かく言えば、中~長距離に得意なようだ。むしろ短距離は、めっぽう弱い、遅い。
自分のペースを整えながら、肺の苦しさを長く抱えながらやってく競技が不思議と合っていた。筋力そのものでなく、精神力も試される競技が。中学生から明青学園野球部・タッちゃんのようにひたすら走っていたが、走ってる間に思考が開いていく感覚を知った。走る行為は、自己対話的にふかく考える時間でもあったのだ。考えることが、もとい、悩むことが好きだった自分からすれば、そりゃあ行為そのものが向いてる。
そうやって気づいたときに、ああ高校のときにがっつり陸上部でやっていればな、とも思ったのだが、たらればで考えるのはもの悲しいものはない。向いてると気づいてからじゃないと飛び込もうとしない臆病者の末路である。興味があったら、踏み込めばよかっただけで、その中で「あれ、向いてるかも?」と気づけるのではよかったじゃないか。
さて、話が長くなったが、「向いてるかもしれないけどやってないこと」の一つとして、短歌がある。57577でことばをつなぎ編んでいく、日本古来の表現。LINEのない時代に、比較すると超絶な時差があるなか、短歌でやりとりし、恋愛にかぎらず相手を思うロマンってのは、エモい。ずっと気になってはいったけど、手の届かない、形式張ったむずかしいものと思っていた。けど、まわりの同年代がちょこちょこやっていたり、「イオン」などの日常的なことばだって紙の中に織り込んだっていいことを知り、より興味がわいた。『ゴーシチゴーシチシチ』という短歌のカードゲームもやっていると楽しい。ことばについて考える練習にもいい。
ということで、「向いてるかもしれない」が「向いてるわこれ」の確信に変わるくらいまで時間を費やしてみようかと思う。「短歌とは」といった知識偏重の座学はすっとばし(知っちゃうと引っ張られちゃう気がするから)、感性から実践に入れるのが好ましい。ゆったり、やるか。短歌。
あ、ちなみに、朝練が重なった陸上部の先輩とは、社会人になり、ちょっとしたきっかけで再会し、ときどき飲みにいく間柄になった。あのとき、わりかし校庭を走っていたよね、という非言語の共通体験が人をつなげてくれた。ビビってやらなかった情けなさはあるのだけれど、向いてたかもしれないことに関わる過程のなかで、情けなさ以上にポジティブな情をみつけられて、ほんとラッキークッキー八代亜紀である。
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