殺意めいたもので自分という人間は構成されている。

先日、定期的に行ってる拠点の清掃日であった。施設の掃除片付けが終わると、いつも通りお茶タイムとなる。珈琲を淹れるのは、知らず知らずのうちにぼくの役目になっており、新しく焙煎した豆を試してみたい淹れ方で珈琲を抽出し、他メンバーに提供する。まあそこまではよかったのだが、雑談の流れで、4月から運営しはじめたカフェの営業形態・メニューについて小言を言われる。「あそこのカフェはこうしてる」だとか「お客さんはそういうの気にしないんじゃないか」とかをあーだこーだ言ってくる。うるせえ。

「200円1杯のことでガタガタ言ってんじゃねえよ」だし、「もはや、そんなこと何周も考えたうえでこの形でやってんだよ」と思う瞬間が幾度もあった。「遠くから眺めてるおめえらはそんなのわからねえよな」と。

ぼくはそういう外野からの声がいちいちムカついてしまう。腹が煮えくり返るほど腹が立つ。今この文章を書いている瞬間もその日のことを思い出して、座布団を5発ほど殴る休憩まで挟んでしまった。こっちの気も知らねぇで言いたいことばかり言ってる奴ら、まじでぶっとばす。今の方針でいいかんじの空間や売上が立ったときなんて言うんでしょうね、あんたらは。

…..というように、殺意めいたもので自分という人間は構成されているし、やはり、どんなに近い人であっても(相手を理解する姿勢はとるとしても)他人を信じる気持ちは毛頭からないのだな、と再認識した。ふざけんなだし、もう、まわりを思いやる気持ちなどどうでもよくなった。ここは一つロボットの心臓に入れ替えて、しばらくいってみよう。壊したいわけではないが、壊れてしまったら仕方ないし、壊れたとしてもどうでもいい。今は、そんな気持ちばかりがある。

溜まりに溜まっていたものが、マグマのように噴火するとは、こんな感じなんだろうな。すべてを溶解してやりたい。