いかんせん中途半端に資源があるから危機意識の欠如がすさまじく未来が怪しい。

そういったものが身近なところに溢れている。ピンポイントでいえば、地域観光なんてのはそんなのばかり。地元の沖縄だって、「沖縄」という海や気候条件などの南国風景コンテンツだけで人がわんさかくる。だからか、観光としてのその質感を高めることへの努力は少なく、あぐらを掻く状況がずっと続いていた。が、コロナでがつんと影響受けた事業者は多いようで、「不憫に」という報道が挙げられるわけだが、ぼくからすれば「何を今さら」という気持ちしかない。

最初から「資源がない」と明らめ/諦めてるところは、何を地域の魅力とするのか、その生存戦力としてのマーケティングや掘り起こしを徹底してる印象がある。古い考えに固執せずに、新しいものや人を受け入れるための風通しもよかったりする。中途半端に依存できる資源があると、思考停止になりやすく、そのままの手法でやっとけばいいんだよ、と考えがちで、それこそが大きなリスクである。危機に瀕してから慌てたとて、なのだ。

そして、最近ふと、日本という島国自体が、じつは中途半端に経済活動をできてしまってる地域ではないかと思ったのだ。「日本語」という言語だけでどうにかなってしまうこと、それ自体が危ういんじゃないか。途上国の人たちは、国内だけの経済に頼ることが難しいから必死に外国語を身に付け、そこでの仕事を得ようとする。これは危機管理能力の賜物でしかない。

「まあぶっちゃっけ英語とかできなくても日本で暮らすの問題ないじゃん」

そういう声は死ぬほど聞くし、わからなくもないし、事実っちゃ事実なのだ。たたべつに世界で通用するグローバル人材になれっていう意識高い話でもなく(そもそも外国語を身に付けなければ暮らしていきにくい国の人からすれば意識の高い低いの話でなく生きるか死ぬかの生命維持の話であり)、賃金も上がらず、会社員という制限付きで「社会人だから」の魔法にかかって、選択肢の狭まれた暮らしって楽しいんか? と嫌でも思ってしまうわけで。

「休みの日のためだけに週5はゾンビとして時間を捧げてます」とかも全く意味わからんスタイルだし。あげくの果てには、日本が貧乏な安い国として認識されはじめ、先進国とは名ばかりになってきてることすら気づかず、のうのうと島を囲む海に守られてるような、放置されてるような状況なんじゃないかっていう邪推がつい頭をよぎる。

「足りない」という意識が足りない、そんな状況下、日本人はどこに向かっていくのか、すっごい気になっている。本来、足りない(=lack)は、向き合うべき問題に向き合わせてくれるのだから、運がよい(=lucky)ことなんだと思うのだけど。この夏にかぎらない、中長期で腰を据えてやっていきたい自由研究である。