「ここがこうなってこうなるからこう書こう」
と、文の構成をちゃんと考え、「まとまった形じゃないと書けねぇわ」となっていたら、それは“左脳障害”なのかもしれない。左が機能しすぎた状態。仕事で書いてる記事ならまだしも、自分で自分を弛め許し、とある精神大陸の地上からか海底へと堀り潜るためのものでしかないのに、何を考えまとめることがあるのだろうか。
「そんな暇があるなら一文字でも多く書き足したほういい。今のおまえにとってはそれが最善だぞ」
それこそ、ここ数年、ずーっと反芻している考えなのだけど、ふと立ち止まったときに、この考え方すらいったん手放してしまったほうがいいのではないかと不安になることはある。低空であろうが飛行を続けることで突き抜けていける壁は必ずある。が、飛んでる方向をミスるとたどり着けないこわさもあって、どのタイミングで方向転換するかは、いつも悩みどころ。しかし悩み続けられるものがあるのは“人間してる”証拠でもあり、生きてるのか死んでるのかをいまだ思い切り答えることのできない自分にとっては、「ああ一応生きてはいるんだな」と確認できる脳の働きでもある。
残された時間が僕らにはあるから
大切にしなきゃと 小さく笑った
君が見せる仕草 僕を強くさせるサイン
もう何ひとつ見落とさない
そうやって暮らしてゆこう
そんなことを考えている
そんな歌詞がミスチル『sign』の中にあるが、ぼくのこの日記には櫻井さんと違って情緒的なストーリーラインなどひとつもなく、「『ここがこうなって〜脳の働きでもある」と「“そんなこと”を考えているし、書くつもりはなかったけどあまりにも書くことがないからそんな考えごとをつらつらと書いてしまっている」今まさに真っ最中である。中身がないままではあるけど、まだ、書き続けてはみよう。
右か左か。ホントであれば、CPUとGPUのように、右脳と左脳が共存するのが正しい反応なのかもしれないけど、20代後半から、どうにも左脳が右脳を飲み込んでしまっている気がしてならない。左脳が右脳を押さえ込んでるような、右脳の主張を左脳が得意のロジカルシンキングで一蹴してるような気分に陥ることがある。
つまり、まるで右と左が敵対関係のごとく主張し罵り合っている。右の声は小さく、かき消されやすいから、注意を払わないと聴こえない。自分のコンディションによっては、わざわざ右の声を聴くために立ち止まる時間をつくらなくちゃなのだ。物理的にも、結局、左脳で生み出した仕事に時間を奪われ、日々追われ、どんどん左脳ばかりを酷使せざるえなく、右脳の居場所を追いやる状況が生まれている。左脳でなく、右脳から仕事を生み出すことが、本当の意味の自分の仕事づくりなのではないかと思う。
しかしまあ、この右脳と左脳が一緒にうまくやってくれる関係性になれば、こわいものはなくなりそうな気もする。右から直感的にはじまり、左で論理で支えて、右がスピーディにがんがん動かしていく。これが理想なのかも。右と左が仲良くなれば、イッツゴナビーオーケー。そんな感覚だ。
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