文章を書けてない時期があるのは、なんでだろう。

自分という人間のからくりを解くのが一番むずかしい。ときどき無性にふり返りたくなる疑問である。メモで整理されているを書くこともある。そこに熱量をにじませるくらいは書きたいこともある。だが、事実、書けていない。

おそらく、「書くための時間をつくれていない」。これまではそういった物理的なものが主たる原因だと考えていた。特に出張をするときに大きく乱れたちだ。だいだい月末月初の移動が多いが、本拠地に戻ってきてからの立て直しに時間がかかってしまう。

しかし、それだけではないのかもしれない。「書くための時間を自分に許せていない」という精神的なものなのだろう。競技問わずアスリートにとってメンタルが身体に大きく影響するように、書くことにおいても同じマネジメントが必要だというわけだ。

「今、書いちゃいけないぞ」

監視員のように鋭い目線を向けながら、見張り、言葉を投げかけてくるやつが、頭の中で警備している。こいつが厄介である。つまり、書くという作業は、いや、戦いは、この監視員を眼をすり抜けて、口を微動だにしないメンタリティを育てることと言っても過言じゃない。

ここ2週間ほどはずっと監視員に丸め込まれてる気がしないので、負けないぞとポメラを取り出し、タイピングしている。そうだ、これは戦いだ。必要なのは、監視員を無視する勇気、それと指先を動かす根気。

腹八分目と飽き

そうそう、「飽きる/飽きない」ということについて。飽きることはべつに悪いことじゃない、と認識してるし、むしろ、飽きてしまったらしょうがない(から、飽きないもの、没頭できるものを探し続けるように心がけている)。ただ探し続けるのも時折疲れてしまい、情けない話、「まだか、まだ見つからないのか!」と弱音を吐きそうになる瞬間はある。飽きることに飽き(そうにな)るときこそ人生の停滞感MAXを感じる。

そこで「飽きてしまったとき」の対処法として、よく引用に出させてもらう、みうらじゅん氏の言葉を思い出すことにしている。

「ずいぶん修行はしたけれど、やっぱり僕も飽きるんです。『飽きて、捨てて、忘れる』というのが人間の摂理だし、人類の歴史でしょう。でもロックとしてはそれに反発したいわけで、飽きているのに飽きていないふりを始めたんです」

「飽きないフリをし続けていると、それが癖になるんです」

なんとういか、広い意味で、自分はパンクでロックをしたい人間だと思っていたけど、「飽きるってことは、人類の王道を言ってて、全然ロックできてねぇじゃねぇかよ!魂が足りないぜ!そんなんじゃ妖怪になれんぜ」といったん凹みつつ、そういうロック(rock)を癖としてロック(lock)できるように、ごまかしを身体化するべく、頭の体操を続けていきたいなと思うわけです。

p.s. 江里さんのSNS影響でポチった『訂正可能性の哲学』が届いた。その他の手つかずの本が20冊以上も溜まってる。どうしたものか。あと、『世界の果てに、ひろゆきをおいてきた』を見終わった。ぼくも「旅」をこころざしてた時期があった、と過去の話にしていたけど、現在進行形なんだと自覚させられちゃった。その派生で30代後半での留学をどうしようかと現実的にはオーストラリアとかカナダがいいんじゃないかといろいろ情報を調べてみたり。あと、映画も含め、最近視聴するコンテンツは、東出昌大の出演作品に取り囲まれすぎているね。あら不思議。そんな最近でした。

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