絶えずあちらこちらから流れてくるものをすべてさらりと受け流せればいいのだけど、性格のせいか、もはや依存なのか、いちいち丁寧にその情報を拾いがちで、考え、向き合おうとしてしまう。すると、時間があっちゅー間に溶けてしまう。
SNSのタイムラインが行進されるたびに、、またメール・LINEなどの通知がくるたびに、脳みそにあるCPUが働きメモリを奪われる。タブを同時にいくつも開いており、油断するとすぐに新たなタブが強制的に開かれていく感じだろうか。そんな状態だと、集中力などてんでなく、ふかく潜り込むような思考になるまで、えらく時間がかかる。「はじめればすぐに終わることが、そもそもはじめられない」問題の原因はここにある。
そんなこんなで、はじめてしまえば1~2日で終わることがもう1ヶ月以上できずにおり、さっきその催促のメールがきて、ああどうしたもんかな、さすがにやらなきゃだよな、と苦しんでいる。苦しみを感じてる暇があるのなら、そそくさやればいいのだけど、そうならないところが、ぼくである。極力サボろうとする。もしも先々に「ダメダメ人類図鑑」が出版されるとしたら、そのページのどこか隅のほうにはぼくの名前が羅列されてもいいんじゃないかと思えるほどのダメっぷりである。その体たらくを噛み締めながら、このあと、重い腰を上げて、取りかかる(たぶん)。
○ 低解像度と絵の具
さて、過去に『情報感度を低くする』という記録をつけていた。読み返してみると、情けない話、今も変わらない問題意識があるようだ。もちろん、この頃に比べれば、デジタルデトックスできていることはかなり多い。しかし、依然変わらず、妙に感度が高いまま、流れくる情報に真正面から向き合おうとしてしまい、避けることを覚えられない。
年々、どんどん新たな人に会いたくなり、だからか飲み会もイヤな場面が増え、仕事もひとりで完結できそうなものをピックアップし、広げずに閉じる姿勢になりつつある。つまり、デジタルだけでなく、アナログな部分でも情報に触れる可能性を遮断するようになってきた。
インプットは好奇心をくすぐり愉しいのだけど、今は自分がつくり出すことを優先とし、必要以上には目に耳に頭に情報を入れなくてもいい時期なのだろう。むしろ飽和しまくってて、溶ける気配がない。溶かすために、つくり出す。それにどうせインプットするなら、本や映画などのふかい時間が好ましい。浅瀬でうろちょろしてる情報など、なるべく目にしたくない。
とにもかくも、やることをまずは終わらす。今週で決着をつける。そのあとに、遮断できるものをあらためてすべて整理し直そうじゃないか。そのあとに、5月前半までのぼくを殺し、5月後半からのぼくとして生きていく。今の自分をやり直すという思考では、もうやってられない。おそらく、うまくいかない。一度殺してみるにかぎる。
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