25分タイマーが切られたので、動きはじめる。そう、ひさびさにポモドーロで作業する意識を持つようにしている。過去でポモドーロが定着したことはないのだけど、今回はなんか体に根付きそうな気配がある。

4月からの新環境、2ヶ月ほどしか経たないが、いくらかは変化を感じている。これまでは少年ジャンプのような修行編のように短期集中で変化を得るようなトレーニングばかりしていた。そういう追い込み型の修得が性に合っているのだろう。けど、これからは積み上げ型も採り入れて組み合わせていきたい。

小さなことからコツコツと(がんばる、という意識を持つことなく)。自分ができるものだと思っていないが、自分ができないと信じ込んできたものに踏み込み、いつの間にかできていたを増やしたい。そうでもしないと、今ある頭打ち感から抜け出せないような気がしてる。

「ほぼ日」を念頭におきながら、25分でやれそうな「かく」「まなぶ」「よむ」「しゃべる」を分類してみたので、できそうな範囲でタイマー切りながら手を目を口を動かしてみるか。

がんばるなら「自分」のままで

trendの語源は「ある方向に転がったりすること」らしい。自分が転がっていったら、誰かにでくわすかもしれない。誰かが転がっていたら、自分にでくわすかもしれない。でも、みんなが転がっていく方向に無理して自分も転がっていくのは、消耗以外のなにものでもないだろう。

昨日ちょうど書いたnoteで「転がり力」という言葉を使った。その中での「転がる」は、「ああすれば、こうなる」という方向を決めすぎず、「どうなるか、わからない」という変化する道に合わせて、自分の選択を変えていくこと、といった意味づけがあった。

ある種、養老孟司のいう「ああすれば、こうなる」は、大多数が関心あるトレンドを追うことに似ているのかもしれない。「どうなるか、わからない」を乗りこなすために、「自分」のままで自分の軸なのかアンテナに合わせてハンドルを切っていく。

予測不可能な不安定に飛び込んでいくには、安定した「自分」がないとむずかしい。逆にいえば、安定した「自分」がない場合は、安定した(ように見える)「トレンド」に向かっていくのが人の心理なのだろうなあ。

とはいえ、自分が「ある」「ない」というのは面倒くさい表現でもあり、おれの場合、「自分なんてなくてもいいじゃん」という分人的、みうらじゅんインスパイアな思考でもあるから、根本的に「そもそも自分って何?」という哲学に誘われてしまう。我思うゆえに我あり、なんていう領域をじっくり考えていけるような環境をまたつくりたくなってきた。

ありがとうございます。そういえば、なぜ「しばく」なのか、を深く考えることなく使っていました。そのわりには、茶のしばき癖は昔からあったような……。とりあえず、もうちょいで細かな日程候補見えそうなんでまた連絡します。

p.s. こちらから