意味は提示されるものでなく、発掘するもの。意味からはじめるのはなく、意味ははじめてから見つけるもの。

意味はメリット、と置き換えてもいいし、ぼくよりも下の世代にはそっちのほうが伝わりやすいかもしれない。

「〇〇をするメリットってなんなんですか」

こんな質問に出会うことが度々あるけど、スタートを切るときにメリットなんて考えない。自分がおもしろそうかどうか、匂いを確かめるだけ。はじめると決めた瞬間に、どういう意味づけにするかを同時に考えはじめる。あとは、はじまってからの自分の周りの反応に合わせて調整していく。動く中で予期せぬことはいくらもあり、その想定外のところにこそ、新たな意味があるので、このやり方はやめられない。

生まれた瞬間に意味など、使命などあっただろうか。生まれて、自我が芽生えて、その意味を追うようになったのではないか。いつの間にか、意味ばかりが強くなってしまっていやしないか。意味に固執させる(義務)教育って一体なんなんだ。何かをはじめる前から「意味意味意味……」と唱える口癖と、自分をずっと同じところに引き留めるだけの“事前意味思考”は捨てちまいなよ。意味を思考するのは“事中”や“事後”でいいじゃないの。

打算的にはじめることが当たり前になってるだな。世の中的には。そんななか、直感的に突き進んでいるほど魅力的に映るのかもしれんな。だとしたら、おれはどう映っているのだろうか。はて。