定期的に漂うことにしている、京都に、今いる。
大先輩から新年会に誘ってもらって、その流れで今日まで京都、明日からの2日間は大阪だ。大阪では関西で唯一っぽいスタンダップコメディの箱にネタを観に行くつもりだ。英語聞き取れるか謎だけど、空気を味わうのが目的だから、おそらく行った時点でミッション完了、楽しんでこよう。
そうそう、新年会が昨日あったのだけど、30人中髭おじさん率95%の飲み会だった。竜巻が立ちがり壮絶なエネルギーが渦巻く中に放り投げられたような感覚で、一番の若輩者であるぼくは、いろんな人の話を聞け、くすぐられるというよりは引っ掻かれるような強い刺激を受けた。そして、なぜか妙に色気を感じる場でもあった。どうやら、いい年の取り方をすると何かをムンムンと発するようになるのかもしれない。
たまたま隣に座ったのが、じつは3年ほど前に鹿児島で出会った同年代の方で、おたがいすぐに気づかないほどに風貌が変わっていたことが発覚。あの頃とはステージが移ろっている様を聴いて、じんわり胸が熱くなるものもあれば、そのなかにじっとりとした悔しさみたいなものもあり、自分という人間を込めたものづくりがどれだけできているのかと疑問符を自身に向けられるいい時間でもあった。
ときおり、その方はぼくのnoteなどを読んでくれていたようだ。「世界観があるから、もっと文章を書くといいなと思ってたんです」といったニュアンスの言葉をくれ、うれしくなったし、恥ずかしくもなった。だけど、うれしいのほうが勝っていた。すこしでも記憶に残るものを自分が書けているとは思ってたなかったから、しかも信頼できる人からそんな感想をもらえたのは活力だ。
○ じぇじぇじゅ
キャタピーからトランセルになって、またキャタピーになるのではないだろうかと思えてきた。ただの自分になるための通過儀礼。トランセルになることはあくまで儀式で、まったく変わらない姿でまたでてくる。蝶々は夢なのかもしれない。
「自分になる」という意味では、キャタピー→トランセル→バタフリーという「進化」ではないような気もしてきた。キャタピー→トランセル→キャタピーというただの「脱皮」でもいいはずだ。それに人間は元来幼少期には「自分があった」可能性のほうが高く、そういう意味では「自分を取り戻す」の言葉が適切かもしれない。トランセル(社会に投げ込まれる/世間という目を持つ)的儀式を通過したうえで取り戻した自分は、きっとあの頃よりも強固で自覚的がゆえにコントロール力が高い自分なのだろう。
昨日某競輪アプリの広告が流れてきて、このアプリはじめてお金入って仕事やめちゃった、AI予測で高確率で当たるし、初回で1000円もらえるから元手もいらないよ、と言っていて「ああ、おそろしい世界だ」と思って、さっとスワイプして、流行りのダンス動画が流れてきた。
さっきふと街を歩いて、それとなく写り込んでくる何人もの女性を見て、「可愛いとか綺麗が同一化してきてるなあ」と思った。似たような顔ばかりで、「同じになる」ための手法に手を出しやすいデジタル世界になったからだろう。今後起きるAIの功罪って、本質はここにあるんじゃないかしら。
「あの人にみたいになりたい」という同化をめざす試みは「憧れ」だと解釈しているが、自分になる/取り戻すために憧れは持ち続けるものではない。憧れている以上、それ以上にも違ったものにはなれない。二番煎じ、まがいもので掴む地位や金や名誉になんの面白みがあろうのだろう。
憧れが蔓延らない世界にぼくは行きたい。
p.s. じつはちょっとだけ近い感覚はありまして、メッセンジャーで送られてきた日記を読むと同時に文章が浮かび上がってきて、脳内返信はできているのに、文字にする手間などもいっしょに計算してしまって、今じゃないと先延ばしにしてしまいがちなのがぼくです。そういえば、『ガンニバル』は積読や積みゲーならぬ「積み画」になってるんすけど、これをきっかけに観てみます。ついで、前述の戻る戻らないの話で『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』をまた観たくなりました。