年々、歌詞入りの曲を作業BGMすることが難しくなってきている。音とともに聞こえてくる新しい並びの単語やその意味をどうしても頭を引っ張られるせいで、手が止まってしまうから。
ただ過去(特には、高校生のとき)に聴き込んでた曲は、どうにか止まることなく突き進んでいける。あのとき、歌詞の意味についてうんと考えていたおかげだろうか。とはいえ、ときどき、ふっと入ってくる慣れしたん出たはずの言葉にしこりを感じて立ち止まる瞬間もある。あのときの青い体と頭ではすり抜けていた言葉、この年になって重ねた経験によって意味をみつける、あるいは再解釈できてしまうのだろう。RPGでストーリー後半になって一定のレベルを超えたか道具を手に入れたかで、一番最初の村に戻ったときに起こるイベントを味わっているみたい(なんだかたとえがごちゃっとしてるな)。
まあそんなわけで、ミスチルの『シフクノオト』をかけながら、日記をつけているわたしである。すべての言葉がすり抜けて、何かを気づく気配は一つもない。いいのか、わるのか。はて。
あくまで手段
ズボラな性格なもんで、だいたいのことの問題は対象との「距離感」だと思っている。人間関係にしろ、仕事にしろ、趣味にしろ、その距離感を誤るとしんどさを感じやすい。まあ、自分の体験がその仮説を強化し続けてるだけの話ではあるけども。
近づきすぎてるのか、遠すぎるのか、その距離感が合わない。場合によっては、距離感を調整したくてもできない。そういう痒いところに手を伸ばせない、ムズムズとした状態だとまあ辛い。「ちょうどいい」って本当はすごい言葉だし、なかなかのレア現象だと思うのだ。ちょうどいい距離はすぐには見つからない。近づいてみたり、遠のいてみたり、その調整のすえに絶妙なところが見つかる。しかし、その絶妙ポイントは、立ち位置としてバビっておくことはできず、また月日が経ち、フェーズかステージが変わるとまた「ちょうどいい」がズレていく。
小さい頃、よく一人で漁港に行って、水平線を眺められる海に糸を垂らすことがよくあった。海は、満潮なのか干潮なのか、その満ち引きで深さが変わり、魚の動きも変わる。そのときの天候が雨なのか、風があるのかも影響する。その状況に合わせて、仕掛けをつくって、餌を選び、糸がゆるんだままなのか、「ちょうどよく」引っ張られるのかを待つのが、釣りの醍醐味の一つだといえる。
つねにちょうどいいをさぐりつづける。その姿勢がないと、きっと辿りつけない距離感はあるんだろうな。あとは、その距離感に加え、対象に対する自身の「温度感」もあって、事態はさらにややこしくなる。そもそもの人間とその生物がつくりあげ、知らぬ間に投げ込まれた社会(一方的に与えられた距離)がややこしく、面倒くさいだけなのかもしれないけど。そういうのも全部ひっくるめて「距離観」をどう洗練させていけるかが、修行だと思っている。サボると呑まれるぞ!と言い聞かせながら。
既知ノナカニ未知ヲ
これは、日常の中にどれだけ非日常を見いだせるか、と親戚にあたりそうな言葉だ。すでにあるもの/知っていることを、冒頭のbgmみたいに経験だったり、角度を変えてみた視点だったりで、未知や非日常がやってくるようなあんばいで。
少なくとも、この交換日記は、既知の中にある未知で、日常の中の非日常にヒジョーに近いもののように感じてはいる。
あまり滅多にないのだけど、昨日、一日で一気に読み切れた『さみしい夜にはペンを持て』に書かれてた言葉は、この日記をつけ続けてきた経験とリンクするし、新しい文章に向かうための指針も見つかった。読書ノートでちゃんとまとめ直そうかしら、そう思える本だったなぁ。
p.s. 『笑うせぇるすまん』はまだ漫画を読めておらず、ずっとまとめ買いセットがカートに入り続けており、「さ、先を越された...!」という情動あり。その流れでいえば、『デビルマン』は、先日のネトフリ視聴と、wikiを読み漁って原作に触れたいと思って、勢いでポチって一昨日とどいた。湯浅監督がどう“インターネット配信”アニメとして昇華していったか、何が削除され、何が時代に合わせて変更されたのかをチェックしていくのが興味深い。