じつは、ぼくも自分で書いておきながら、ニュアンスが違うかもなぁと思うことがいくつかあった。
○ 職人気質と回収欲
回収(マインド=意識)はあっても、回収欲はほとんどない。ぼくはあまり後先を考えず、論理よりも直感を優先して、物事を判断してしまう。「なんかいいなぁ」とじわっと沸いた感情だけで、いともかんたんにスタートを切る。感情は、炎天下常温の魚よりも鮮度が落ちるのが早いナマモノであると分かってるため、「思った日が吉日」をつねに唱え、「タイミングを逃すと何もしない自分」ばかりを信じている。そんな輩だと、散財してしまうことが多く、だもんで、さすがに30も過ぎたし「回収する意識くらいは持っとかなあかん」とマインドセットを変えた。
何事も無駄なことはない。芸人の生き様をはじめとして、芸能を眺めてきた身なので、「ネタになればなんでもいい」という浅はかで楽観的な判断基準を持ってしまっている。ようは、びた一文事実は変わらないとしてもその捉え方を変えれば、何か気づきや学びは必ずある。やる前に考えるよりも、やった後にその意味を見いだせればいいだけの話だ。そう考えると、たいていのことは、視点をずらせれば学習になる。回収欲はなくても学習欲がある自分としては、「ここに時間とお金を使うとどうなるんだろう?」の実験が楽しくてしょうがない。“直感を論理でおぎなう”体験ともいえる。
ただ待てよ。いや、ちょっ、待てよ。そうなると、何やっても肯定できちゃうから、いくらでも選択肢が出てしまうわけだ。ここで強いて欲をいうなら、お金よりも時間はなるべく溶かしたくない(そもそもお金はぼくらをどこかへ誘ってくれるツールでしかないはずなのだ)。55歳で死ぬと仮定して生き、もう折り返しを過ぎた身だ。かけた時間だけ、学習はしておきたいし、何なら、その学習したことを文字でも声でも何でもアーカイブして記録してはおきたい。
まあ、時間をかけるが、時間をかけただけの結果があってほしいとは多分思ってはいない。もし回収できる知識なのか技術なのか、関係性なのか意味なのかがあったとしても、すぐすぐ求めない。スローなのだ。能天気なのだ。土を耕して、種を蒔き、水を遣り続け、芽が出て、雑草を抜き、実がなり、収穫する。ここまでは、やはり時間がかかる。今はちょっと「無駄だった」と思っても、10年後に実がなって「うっそー、あの時のあれって今のこれじゃん!」ともぎ取れる可能性だってある。だからまあ、ゆっくりでいい。そこらへん、自分のことであるが「ああ、おれって島育ちだよなあ」と感じてしまう部分だったりもする。
さて、「で、回収欲があるの? ないの?」に対して曖昧でぐちゃぐちゃな文章になっていると自覚するわけだが、こんなんでいいんです。書きながら、ディベートっぽいことができてるって楽しいから。この追い剥いでる感覚。とりあえず、直感的で楽観的なやつの回収論ってことで締めておこう。
ちなみに、この理論をこれまでに足を運んだ風俗に当てはめてみたとき、まるで回収できる気がしない。なぜだかはわからないが、そこに回収的意味を見い出したいとも思わない。刹那的に生まれて消えていく空虚感、諸行無常な感情がむしろなんかよくないか……いや何か意味を見い出しはじめちゃってるからこのへんで! VRでAVでも観るか。
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