腐敗、発酵、芸風

「がんばる」論について考えたい、と思った。

そもそも「がんばる」という言葉は、誰が発するのか。その“主語”が重要になる言葉じゃないか。自分で言うがんばるでなく、他人が評価するがんばるこそ、意味があるものだと過去にも書いてきた。

さらに擦りたいのが、「努力という言葉は私語にしたほういい」という明石家さんまさんの努力論について。がんばる、という意識を持ってやるものでなく、そもそも(自分では)努力しているつもりはないけど(他人からすれば)努力に映ることを続けていくことが大事じゃないかという話。

そして、ぼくはこんなことを書き留めていた。

「(自分では)働いてるつもりはないけど、(他人からすれば)ちゃんと働いていて、さらには、結果も出てはいる。その仕事が、自分にとって苦じゃなくて、息をするように、とまでいうと大げさかもしれないけど、ある種、あそびのように没頭できるもので暮らしていく」

ふり返れば、20代後半から34歳になる現在まで、少しずつ「働いてる」感覚を減らしながら(仕事してるぜ比率を変動させながら)仕事に向き合えるようになってきた。それに歯を食いしばってまでやったほういいことと、そうじゃないことの分別がつくようになり、「やらないこと」の選択も幾分かうまくなってきたようにも思う。

どんな経路かは説明しがたいけど、「なんかやっちゃう」は「なんか他人からみれば、がんばれちゃってること、あるいは、技量が高いこと」につながっている。その上で、自分の“芸風”ってなんだろう、と考えていきたい。「できること」と「(世に)売れること」は違うなか、後者にスライドしていける可能性のある自分を探りたい心境も最近はあるのだ。

渥美清の寅さんのように「大見謝といえば」が見つかるのだろうか。30代はそういうのをふかぼるための10年と意味づけてたけど、そろそろ後半戦、いい加減、一筋の光を見つけたい。ちなみに、渥美清が願掛けをした小野照崎神社は、そのエピソードを知ったうえで昔参りに行ったことがあったが、今の心持ちでまた参拝したほうがいいんじゃないかとふと思ってしまった(じつは先月近くまで寄っていたのにあきらめちゃったから)。

「がんばらないためにがんばる」という発想が大事だと思いつつ、「がんばらないためにがんばるというか、そもそもがんばるという概念を滅しながらなんかやっちゃうことを意識になりなんかやり続ける」がよりしっくりくる。そんなわたし、そろそろ35歳、おじさん見習いも終盤戦かぁ。

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