年末年始に向けてやることは山積みだ。年越しまでに終わらしておけるとベターなことばかりだけど、ベターだからといって年明けにまで先延ばしにするともはやずっと終焉などないんじゃないかとビクビクしながら今日を過ごしている。
最近は不思議と「素直に書く」ことについて考えている。『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』『世の中と足並みがそろわない』『編めば編むほどわたしはわたしになっていった』などのエッセイを併読する中で、ここ数年の自分は「素直に文字を打てていないのではないか」と感じてしまったのだ。嘘をついてるつもりは一切ないのだけど、芯ではなく、側のぶぶんで文字を打ち込んでしまっているような。
なんというか『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』のお題であった「自分が今いちばん悩んでいることを書いてくだい」ができていないような感覚だ。あるいは、同著で触れられている「自分を研究してい自分がいちばん大事に思っていること、辛いと思っていること、嬉しいと思っていることを書く」という「自分に集中する」ことができていない。だから「自分にしか書けないことが書けていない」のだろう。上っ面で言葉を交わしてばかりいるんじゃないかと思うと、こわい。妖怪とかを扱う「こわさ」じゃなく、人間のこわさだから余計にこわい。
同じく飽き性と自覚がある身としてふと感じたのは、「飽き性は飽き性なりにも根性はあるはずなんだよなぁ」ということ。はじめたかな?と思うとピタッと動きを止めることなんていくらでもある。よくよくふり返ってみれば、エイヤと勢いではじめたおかげで「あ、これは違うな」と気づいたからその手を動かすのを止めただけのことも実は多い。
目的の根っこがしっかりと張っていれば、手段なんてのはいくらでも手放せる。
つまり、飽き性ではあるが、ブレているつもりはなく、目的に向けた手段を変えただけで、その手段を変えると決断できたのは、実際にはじめてみたから、という話なわけで。これが微動もせず口で言ってるだけでひょいひょいと次やること変えているとおかしいけど、動いたうえで形を変えていくのはごくごく自然なことなんじゃないか。むしろ、まわりのほうが頭だけで(自分を含む)人を評価しようとしてしまう空気が蔓延しちゃってるようにも思う。まあ、ただの強がりと言われればそれで終わりなのかもしれんけど。
失敗へ信頼を置いてみるとか、そしてそもそも失敗なんてないとか、失敗という言葉へのうろつき方を変えていく。というか、失敗かどうかを判断するのは、死ぬ間際でいいんじゃないかとすら今では思う。それと同じく飽き性かどうかも現状で判断しすぎないようにしてみようかな。
なんていことを独り言ちてしまう今日この頃。書いててやや心が落ち着いてきたので夜の打ち合わせに向けてがつがつWP作業進めます。その前に10分だけ休憩しよー。
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