家の中でどこで過ごすかで、思考が変わる。そんな感覚がある。

作業デスクのある読書室、なんちゃってバーカウンターのある台所、そして、1Fの真ん中にある広めローテーブル(そろそろ炬燵に変化)がある部屋、それぞれから見える景色が違うせいだろうか。椅子に座ってるのかあぐらをかいているのか、作業スペースが広いか狭いか、など微妙な条件も違う。変わらないのは、隙あらば5匹の猫の1匹が膝の上に乗って寝始めることくらい。ちなみに今は、真ん中の部屋であぐらをかきながら、2匹の猫の重さに耐え、やや足をシビらせながら日記をつけている。

10部屋近くある大きな家で、気分や気候に合わせて、作業場所を変えていく。そのとき一番適した場所で過ごしていく。これは、家の中での「遊牧」と言ってもいいのではないだろうか。自分の家なのに自分の部屋というのがなく、テントと寝袋で毎日寝ている身でもあり、まさに“おうちノマド”と言ってもいいかもしれない。へんに落ち着かない、安定しないことが、自分にとっては大事なようだ。

絵の具を溶かす

そうだ、「仮説」というのがあったな。

ただ自分の中の整理としては、仮説を立てることと言語化することは違うものとして認識している。言語化は、経験に名前をつけ「体系化」していくこと。なるべく自分の言葉として語れるように。これから経験することを最初から体系的(モデルあるいはテクニック)を知ってしまうと、そこに引っ張られて、なぞらって、型に押し込められしまう怖さがあるので、そういった情報はいれないようにする。もちろん必要な要素は調べておくのだけど。それで自分になりにイメトレ(シュミレーション)して、経験した結果、「自分/周りがこうなるかも」と予想を立てておくのが「仮説」であり、仮説検証という経験のあとに、言語化は行っていく。

たとえば、「カレーをつくる」という経験のために、ざっくりとした材料や工程は調べて頭に入れておくのだけど、細かいレシピや、ルールや料理の化学/科学的知識までは入れないようにする。「これとこれを混ぜればカレーになる」くらいの理解でとどめておく。「玉ねぎはなくても意外といけるんじゃないか」とか「空芯菜をペーストにしていれるとグリーンカレーっぽくなるんじゃないか」とか自分なりの実験の仮説は立てつつ、あとは、自分の五感を頼りながら、カレーを作っていく。レシピ通りにつくったからと言って、自分がつくりたいものになるとは限らない。そうした経験のあとに、「クミンを多く入れるとこういう香りになる」とか「ミキサーにかけるときの空芯菜と水の量の比率ミスると苦味が強くなる」「レトルト使うと鍋へのこびりつき方なんかえぐい」という結果をもとに、言語化を行なっていく。言語化するときに、他の人はどう説明してるのか、研究者/料理人はどういうルール/レシピとして整えていくのかを調べながら、自分の経験と言葉を照らし合わせていくイメージ。そうやって自分の五感にもとづいた経験から自分にしっくりくる言葉を選んでいく。こことで一つ経験したことによって、次の仮説を立てるときの幅が広がっていく。そんな感じ。

あ、あとチラッと「言語化」についてweblio辞書で調べてみたら「言葉で表現すること。 直感的なものを説明・伝達可能にすること」とあった。そもそも自分の身体(五感)で感じることは直感的なものなのだろうし、体系化するということは自分以外の第三者に伝達するための客観性を帯びるような言葉選びが必要なのだろう。ただ、その言葉選びも自分が持つ心もしくは魂から手足の生えた言葉じゃないと、借りもの感すさまじく、ペラッペラの軽いものになってしまう。「それ、誰でも言えるじゃん」みたいな言葉。「おまえが言うからそれ意味あるよなぁ」と思える言葉がいい。自分が付き合っていく言葉には体重を乗っけたいじゃないすか。

そうそう、『訂正可能性の哲学』購入したのはいいが、まだちゃんとページをめくれていない本だ。だけど、「生きていること自体がフィールドワーク」という言葉があるように、動き続け、経験を積めば積むほどに「あ、やっぱ違かったな」と思うことなんて余裕で出てくるのだろう。やったぶんだけ、訂正しうる。とりあえず、プライドとかそんなことに振り回されずに「訂正します」と言える大人であれたらとは思う。

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