偶然は重なる。
ちょうど『左ききのエレン』を読みはじめたところで、書くことについて共有する機会に合わせて「ハチナナハチハチ」を読み直していたところだった。
○ 左利きのヨッシー
自分の文章を読み直せば読み直すほどに、その幼稚さと傲慢さに恥ずかしくなるが、反面、ほとばしる感情を勢いのままに書き切ってる様子に憧れを感じてしまう。“知らなかったから”こそ書けるもの、知らなかったからこそ見える世界。今じゃ、幾分か知ってしまったがために、書けなくなり、ただただ見えている世界に飲み込まれないように、ふんばる日々だけがある。童心をなくした大人がどうなっていくのか、漫画などでなんとなくわかっていたことが、哀しいかな、本当の意味でわかりかけている。
ただ「あの頃はよかった」ではなく「あの頃があり、見えるようになったから、たどり着ける地点はどこなのか」とまだエクスプローラーではいられてるはず。立ち止まってはいない。側からみれば立ち止まっているに見えるかもしれないが、細かくジタバタ身体を揺り動かしている。今自分を締め付けてる鎖を解く糸口を探している。
“根っこ”は、ずっと変わっていない。その根は、もう10代の頃にはしっかり根付いていたのだと思う。「のだと思う」と書くのは、10代の頃の文章が残っていないからだ。20代はブログを読み返せば数多のアーカイブから確かめられる。根っこは変わらないことはわかるが、その表現はかぎりなく稚拙だ。そして、30代の今まさにこの文章を書いてる瞬間も拙さから抜け出し切れていないことに気づいてしまうから罰が悪い。
ずっと気にしてること、考えてることの根本は変わらない。ただ、その物事の見方を変え、切り取り方を変え、表現の幅を広げていきたい。が、こう書いてることだって凡庸な文章でしかなく、取るに足らないに感じてしまう。書けば書くほど、みじめになっていく。
書くたびにみじめを掴まされるのだけど、この連続の先にたどる着くものはあると祈りながら、今日も今日とて、日記をつけているわけだ。40代になってもみじめなのか、そもそも、みじめは死ぬまで消えないのか。暗いことを書いたから、適当にふざけてオチをつけようと思ったが、もはやそういう小細工すらみじめを深める。
受け止めつつ、筆を置きつつ。
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