見えないものを信じながら、暮しをつくり、だからこそ慎ましげに、自然やその日々に感謝をしながら過ごせたのかもしれない。それに対して、(ぼくも含め)今の人は、見えるものに依存しがちで、「そんなものはない」と一蹴するかのように、見えないからこその曖昧さゆえに培えた謙虚さ/健気さを失いつつあるのではないか、とも思う。
どのブログのどのエントリだったのか全くというほどに記憶にないんだけど、たしかに自分が書きあげた文章だったようだ。検索するとアーカイブも残ってないから、おそらくサーバー毎消えたあのブログなんじゃないかくらいの目途が立つくらいの予測。
今の自分が読んでも、「そう! そうなのよ」と思える文章が書けてるってのはなんだか誇らしいし、過去の自分が未来の自分に対して「凹んでるときにでも読んでみなよ」と思いを込めていたような錯覚すらしてうれしい。
反対に、あの時はこんな文章書けてたのに今は言葉と言葉の紡ぎ方が淡々と単調に、つまらなくなってしまっているのはなぜなのか、と悔しさや怒りも同時に湧いてくる。あの頃にすがりたいわけじゃないけど、あの頃の状態とは言わないまでも感覚くらいは取り戻したい、そこに引きずられて引きずられて引きずって数日が終えてしまっている気もする。情けねぇ。今の状態を乗りこなして今を変えなくちゃいけないはずなのに。
熱量がなくなったと思ってたけど、熱量はなくなってはなく、むしろの有り余るくらいあるからこそ、できなさが苦しわけで、実際には、熱量に反応できる体力がなくなってしまっただけなのかもしれない。あと、シンプルに、20代ほどの暇を弄べなくなってしまったこととか、自分一人でいられる空間が減ったとかのエトセトラで。あとは、覚悟なんかな。
いいんだ、思い通りに書けなくても。ただ書くのが好きでさえいれば、それを続けさえしていれば、偶然性に頼るかたちにはなるけど、ちょっと先にいる自分が「うんうん、そうそう、ブレてない」と認める文章に出くわせる好機がどこかで訪れる。凡人にはちょうどいい書き方だよなこれが。