朝、目覚め立てでスマホをみたくない。できれば、午前中はスマホはおろかパソコンすら触りたくない。不要な情報が入ってくることは、毒を注入されるようでシビれた頭で思考を制限された状態で過ごす朝は、ほんとに厭だ(しかしそうしてしまいがちな自分にもっと厭になる)。

毎日とは言わないけど、ときどきそう思う日があるし、その気持ちに素直にそぐい時間を過ごせる日ももある。暮らす場所が変わったからか、あるいは、キャリアが変わったからか、20代のときよりも、アナログで過ごせる時間が着実に増えている。そのおかげで左脳ではなく右脳をつかった新たな実験ができようになっている……そう願いたい。

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思うがままに書いてる状況が今あるとして、ふと、「ポメラと作文用紙に書く違い」ってなんだろうと指が考えはじめた。

思考と感情を吐き出す、という機能はどちらも変わらずにある。ただそれぞれを定期的に書く立場で今気づいたのは、ポメラの場合は、ちょこちょこ「delete」キーを押していること。ここまで書くのだって10回以上はdeleteを叩いている。作文用紙のときは、ボールペンで書くため一度書いてしまうと消すことができない。消したとしても、書いた文字の上から線を引いて、マス目の横に書き換えたい言葉を差し込むくらい。

つまり「後戻りしにくい」のが紙に書くことの性質のようだ。そして、後戻りしにくいから、前に進んでいきやすいのは魅力と言える。一度書いたことを「ああちょっとニュアンス違うかもなぁ」と一行ごとにいちいち立ち止まっていては一本書くにも日が暮れてしまう。そういう細かい手直しは、書き切った後にやればいい。むしろ、逐一直し(消し)てしまうことで、「本当はあの表現よかったんだけどな」や「そうか、おれはこんなことを考えていたのか!」というような後々ふり返ったときの胸がじんわりする感覚を殺してしまう。

おそらく写真に似てて、元データがあればいくらでもトリミングなりフィルター加工なり編集の選択は増えるが、最初から細かく表現を絞ってしまうと可能性をつぶしてしまうことになる。だから、RAWデータが重要になってくる。

自分の中のRAWをどれだけ残していけるか。ポメラでも作文用紙でも書かれるものは変わらねど、書くことはしぶとく続けていきたい。それが自分らしく暮らすことだとぼくは言いたい。

玉入れと新しい穴

キャッチボールではなく「玉入れ」は、しっくりくる表現だ。そして、なぜかそのブログタイトルから下ネタを連想してしまった自分を恥じながらも、「穴」について考えた。

穴の種類はたしかにあるよなぁ。だけど、どの穴を深掘るのかよりも、穴を掘るペースを保てるかどうかが自分にとっては大事な基準かもしれない。自分が掘りたいときに掘れる穴であることが嬉しいわけで、一番最初は浅くして掘れないとしても、次、次と続けているうちに深く掘れる。二回目に掘るのは1年後かもしれないし、10年後かもしれないし、もしかしたら明日かもしれない。掘るタイミングはこっちに任せてくれ、だし、第一印象だけで「(自分にとって)ないもの」にはしたくない。

「妖怪」とか「カクテル」とか「お笑い」とか「ブログ」は10〜20代だからずっとゆるく長く掘ってきた穴だから、いつの間にか深くなっていた。それを短期間でここまで掘れと命令されたら厭だし、興味を失っている可能性だってある。すぐに深掘れないかといって「飽きた」という話でもなく、自分の意思的には2回目をどう引き寄せるか、運命的には2回目のきっかけが訪れるのか次第なのだと思う。

ちなみに、最近掘るのを再開したのは「筋トレ」と「タコライス」であり、新しく(あるいはタコライスから派生して)掘りはじめたのは「タコス」と「トルコライス」である。Netflix『タコスのすべて』の未視聴だった新シリーズを観ながら、「タルコライス」という一皿をつくることを夢見ている。

これも左脳ではなく、右脳の時間が増えたおかげなのかもしれない。

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  1. Pingback: 言語化することでこぼれ落ちるもの | yeri.me

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