どこかで見せるわけもない文章は、拡声ではなく、蓄音である。
最近では蓄音する時間あるいは集中力をつくりきれていない気がする。それもこれもただただ自分が姿勢を固めきれないだけが問題なのだろう。つまりは、自我ではなく自意識のほうが血気盛んに働いている。自我で記される文章をずっと追い続けているのに、自意識に邪魔されている状況はとてつもなく情けない。恥ずかしい。だってもう35だぜ、とか思ってしまう。何より、同じ過ちを数年ぶり返してしまっている自分に向く感情は、一つたりともポジティブにはできない。
だから板尾日記もとい源泉である板尾創路さんにはリスペクトしかない。どうやったらああなれるうのか。まあ憧れてしまっているうちはダメなのだろう。