サングラスかけている恰幅のいい大男が背中をまるめてママチャリに乗ってる姿はしびれる。なぜだろう。そもそもサングラスかけて格好つけてる雰囲気があるのに、それを打ち消すようにママチャリを乗りこなしているからか。なんにせよ、カフェの窓側席に座って、街行く人をぼんやり眺められる時間はプライスレス。

ジーピーユー

意気揚々とCPUとGPUという単語を使ったくせに、ぼく自身もざっくりとしかわかってないし、とりあえずそこそこ性能の良いCPUやGPUを積み込めれば、「処理速度はあがり、グラフィックも滑らかになる」くらいの理解だった。

勝手な(調べ直すと、ぶっちぎりで間違っていた)イメージとしては、CPUは言語を扱うのがうまい「左脳」で、GPUはグラフィックを扱えるから人間の複雑的な感情もうまく処理できそうで「右脳」っぽいなというものがある。CPUとGPUはお互いを高め合いながら共存するように、左脳と右脳もそんなものなんじゃないかと。

ただ性質によっては、左脳と右脳のどちらが優性かってのはやっぱりあって、ぼくの場合、簡単な腕組みテストではかれば、「右脳」がつよい。まあ確かに言われてみればそうだよなと思うわけで。

ここでふと考えることがある。先天的には右脳ファーストなんだろうけど、後天的つまりは仕事柄、左脳を使いまくらないと処理はなかなか進まないし、仕事で関わる人、というか、ぼくのまわりの人は基本的に「おおみじゃは左脳人間」と思っているんじゃないか。

人間は「わかりやすさ」を受け取りがちで、そのわかりやすさをつくるための左脳行動を見つけたら、すぐにそれで相手のことを判断しがちだ。そういう視点で考えると、ホントは複雑でしかたない読み解き難い感情から人間を捉えるでなく、自分が解釈したいわかりやすい物質的なものだけで判断しようとする習性が現代人には染みついているのかもしれない(ちょっと飛躍しすぎかもだけど)。養老孟さんの「同じわけがないのに、型にはまりにいく人間」というニュアンスの指摘はここにあるんだろうな。

関連:定義=「生きている」 / 第13回 同じという概念。

さて、GPUに触れてはみたものの、結局のところ、ぼくもよくわからないし、人間に置き換えたときの比喩も思いつかず、挙げ句の果てには、左脳右脳トークになってしまった。もしかしたら、この直感的にあちらこちらにワープする展開こそが、左脳でなく右脳人間の証明なのかもしれない。とはいえ、右往左往、いつも右に左に揺れていたい気もするんすよ。

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