あだち充の『タッチ』を読んで部活にいそんしんでいたときは、「根性」に対して、えらく親近感を持っていた気がする。それが20歳前後で方向転換し、「根性論だけで語られるものってなんかおかしくないか」と頭上に?を乗せて過ごす日々に変わっていった。
「根性がないからできない」
そんな一言で、精神論だけで、人の能力が規定され、根性ベルトコンベアーに乗り切れない「できない人」が排除されていく社会ってどうなんだろう。エリートと呼ばれる人が集まる大学にうっかり紛れ込んでしまった自分は、その馴染もうとしても馴染みきれない環境下、ずっと悶々とした
そう、「根性が大事」ではなく「根性も大事」ならいいと思うのだ。要因がいくつもある中で、根性というパーツがある。そして、そのパーツが性質的にうまくハマる人もいれば、そうじゃない人もいる。多様性多様性と連呼すれど、そういった些細なことには目を向けない、言葉だけきれいな大量の人間を前にして、ぼくは人間不信に陥った。今も不信気味なのは変わらないし、信用する人間なんてごくごく一部である。
まあ不思議なのは、というか、大きな気づきとしては、あるいは、自分の成長とも言っていいことかもしれないのは、信用してる/してない、好き/嫌いなど関係なく、距離感の保ち方一つで、わりといっしょに事は動かせるし、共存はできるということ。だからといって、自分の好きなこと、場所、人を見つけだし、近づこうとする行為を怠けていい理由はないし、怠けることで自分を没させていいわけでもない。
さて話はだいぶ逸れた。根性の話だった。
根性くらい根太そうなものがすぐ見つからなくても、“花性”や“葉性”のように細くきめ細やかなものであれば見つけやすい。そこから手繰り寄せながら辿っていくやり方もある。葉、枝、幹、根と、視界的に見えやすい上部から見えにくい下部へ。見えるようになった根がうまく生きるといいよ根。
そういえば、灯台ははちょっと植物に似てるかもな。灯台もと暗し。足下のほうが見えにくい。あ、今日からNETFLIXでトークバラエイティ『LITGHT HOUSE』が配信されるんだったな。一気観しちゃう可能性89%。
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