1ヶ月ぶりの散髪ってことで、朝から米子へ向かう。お店を変えてから2回目の訪問だ。

10時予約のところ、電車が早めに着いたので、店近辺に最近オープンした「山陰最大」をうたうドンキホーテをうろうろした。

まあ正直、置いてるものは普通のドンキなのだけど、都会と違って、空間が広々としている。ただギュッと「縦空間活用すげぇな=ドンキ」という脳みそになってる自分からすると、あれはドンキであってドンキでないような感覚がした。えてして、地方では、知ってるお店も知らないお店に変わるものである。そのローカライズがおもしろい。

美容室では、数年ぶりに担当者が女性である。ここにジェンダーが関係するとは言い難く、技術とはべつに、どっち目線で切ってもらえるかはわりと大きい。これまでは、同性目線で切ってもらったほうが、いろいろ感覚伝わるのかなと思っていたけど、意外とそのズレを感じることが多かった。過去を振り返ると、女性スタイリストさんとの相性のほうが良かったので、また戻すことにした。

とはいえ、自分よりも若い人であるとか、会話とかにお金を払ってまで気を遣いたくないので、同年代以上の方がいる(&ダサい感じにならなさそうな)ところで、というのがお店選びの基準だった。現状、過ごす時間も、仕上がりも、心地よく終えてるので(次のお店を探す恐怖におびえず)安堵している。

また来月ゆきます。

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と書いていたのが、6月5日か……。なんでなんだ。1ヶ月以上も加筆できぬまま、過ごしてしまった。返信遅れてごめんなさい。これはもちろん、えりさんへの申し訳なさではあるのだけど、あのときの自分の感情と思考に対してもごめんなさいである。

鉄は熱いうちに打て、とは本当によく言ったもんで、そのときの熱量で「書き切って」おかないと、また後から書くときにその温度を合わせるところから始めなくちゃいけなくなる。ぼくの場合、その温度調整を超深層心理で「めんどくせぇ〜」と思っているようで、だからこそ、書きかけの下書き原稿が積み上がっていく。

……と先日気づいてしまった。だから、「書くなら書き切る」の精神でいく!

そういえば「自分」はないんだった

なにかをつかまなくては、にぎらなくては、見つめなくては前に進めない気もするわけで、その仮の焦点を毎回定めつつも、仮のまま、なにかに定めつつも定めない、そういうふわっとしてるのに安定しているような、しかし不安定のような、ゆえに安定しているような、まだまだよくわからないものに焦点を合わせてみたい自分がいるのだろう。

なんとなく、ロッククライミングを想像した。岩を登るとき足場をつくるため、ペグ(くさび)を岩に打ち込んでいく。このペグをどこに打ち込んでいくのかを精査しては、丁寧に打ちこみ、足場をつくり、少しずつ上へ上へと向かう。

思い通りの真っ直ぐ垂直なルートでペグを打ち込めりゃいいのだけど、そうも簡単にはいかないだろう。だって、岩は人工物じゃないから。自然なものは平均化されていない。凸凹していて、微妙に強度も違う。だからこそ、打ち込むところを観察して(これまでの経験と勘を総動員して)、ここだと信じてペグを打ち込む。

必ずしも「わかる」から信じるとは限らない。「わからない」ものでも信じて打ち込みたくなる要素があれば、そのペグを打ってみればいい。打ち込むことでしか掴めないものが必ずある。最悪、その足場が崩れたとしても、最後の最後の安全装置としてのハーネスが身を助けてくれる。わからない、けど、自分なりに可能性や期待値を感じるところはどんどん打ち込んでいけばいい。」

……みたいな見知らぬ誰かにレクチャーしてもらっているイメージ。笑

てか、そもそも「安定」も「不安定」も紙一重でしかない。最終的には、生き残るための本能とか直感がものをいうような気もする。その瞬間が訪れたときのために、普段から「わからないもの」に対する嗅覚を鍛えているんじゃないかとすら思える。

ひさしぶりの日記はこんな感じで終わります。

p.s. 『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』の気になり度は日々爆上げです。ちょうど仏教用語への関心が高まっているのもあり、「分人」と「仏教」について自分なりに調べたいタイミングにきました。

アニメは『ゴールデンカムイ』を観始めました。映画というかドキュンタリーは『おれは無関心なあなたを傷つけたい』を読んだ影響もあり、『アイアム・ア・コメディアン』を東京滞在中に観に行けたらと計画中です。

本は『ニホンという病』『深く、しっかり息をして』『世界の祝祭日辞典』『お盆本』『ビジュアル・シンカーの脳』をちまちま併読中でございます。