「日記をつけるのはあくまでも健康体操のようなものなのである」

20歳のときに大学図書館で手に取った一冊『感情力 自分をコントロールできる人できない人』。その中のコラム「感情を文章で表現する(p346)」に冒頭のフレーズがあった。

書くことはヘルスケアの一環であるという認識はここから始まったのだと思う。いや、正確には当時20歳ではまったくピンと来てなかったが、20代後半あたりで読み直してみたら、このページの一節がやけに気になった。自分の「書く」という経験が、健康、特にメンタル(頭の中のぐしゃぐちゃ)を整理し支えてことに気づけた。「ジャーナリング」という単語と手法も後から知ったのだが、まさに自分が20代からやり続けていたことと自覚した。そこから、「自分のために書く」を肯定できるようになったのだ。

ブログと思考の衣替え

しかし、ブログ(記事)は、インターネットの海に流す小瓶である以上は「誰かが読むかもしれない」という危険ないし好機につねに晒されている。だからといって、他人の目を気にして書いてしまうと、“裸”とはほど遠い“鎧”をまとった文章になり、他人が自分に下剋上するブログになってしまう。おそろしいし、本末転倒である。

そこで考えるのが、「適切な自己中心性」であったり「自己本位」という考え方で、あくまで自分の内にあることからスタートさせ、それを独り言から二人ごと、三人ごとへと分母を広げていく。その分母になりうるのは、自分と似た・重なる何かを持っている人なんだろうと思う。自分のための“薬”をつくっていたら、「わたしもその薬ほしいっす」とシェアできる人が増えたみたいな感覚だろうか。

そういった考えから、ぼくはこの「兎に書く」を、“半住み開きブログ”として位置づけることにした。自分の居心地のよさ重視だ。「おれは合わせない。もしあなたにも合うならご一緒にどうですか」の姿勢を貫く。だから「読んでもらいやすいように」は気にしない。気にしはじめると自分の中にただよう生真面目な輩が出てしまうし、もはや仕事の感覚になり「やらなくちゃ」となってしまうから。こうしたほうがいい、と意識量が膨らんで、その編集がめんどくなり、下書きで埋没した記事がこれまでにどれだけあったことか。どんな形であっても、自分の感情や思考に日の目を浴びさせたい。もはや親心である(子どもいないけど)。そんな思いで書くのが、「自分のためのブログ」の在り方なんじゃなかろうか。

あと、他人に合わせ、小さな嘘を重ねた“鎧”モードから放たれたことばを受け取り近づいてくる人は、結局は嘘でつながった関係なので、嘘(あるいは演技)を続けないといけない可能性が高く、のちのち、自分を苦しめることになる。ぼくは演技が得意ではないからしんどさが途中で勝つ。だったら、最初からあっけらかんとした嘘のないことばで仲良くなれる人だけと仲良くなれればそれでいい。10万人に1人くらいはいるんじゃないかなぁと楽観的に考えている。

“鎧”批判をしながらも「今自分は“裸”な文章を書けているのか?」と自身に問えば、恥ずかしながらまだ怪しく、パンツ一丁でしぶとく脱がずに粘っているような気もする。ジャンケン以外であいつの一枚をいかにして脱がすか。野球拳よりもハラハラするゲーム、これもまたぼくにとってのブログである。

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