現代の生活は、詰まりやすくなっていると思う。
情報が死ぬほど大気中・電波中にうようよ浮遊してて、しかもスマホやパソコンを介すると勢いよく流れてくるせいで(ぼくらが依存してアクセスしちゃってるだけってのもあるけど)、並大抵の人間では処理できないほどになっている。朝起きてちょっとFacebookやTwitterを開いて関連URLをのぞくだけでもう情報過多になってしまう。ところどころで脳みそをスリープモードにしてあげないと頭も心も持たない。
その情報の詰まりやすさってのは、ぼくは「頭の便秘」だと思っていて、身体性を忘れがちで頭だけで考えがちな現代人は、次々にやってくる情報に対して本能的に何かしらの“反応”をして、何か思うことだったり表現したいことがあるはずなのに、発せず留める。それらを放出することなく、留めてばかりいると、頭に溜まり続ける。書くなり、話すなり、手を動かすなりの放出がないと、頭が鈍り、その結果、心も鈍っていくという流れなんじゃないろうか。
ちなみに「放出」の言葉は、「吐き出す」のイメージにだいぶ近しい。より生理的なかんじで。
○ 予期せぬスイッチで脳内ルーレットが回る
その“スイッチ”を自分で持てたら最高だけど、自分のことでいえば、なかなかになまけもので腰の重い人間としては押せるときと押せないときのムラがありすぎる。
ぼくの場合、「書く」放出が多いし、自分のために書くという意識も多いけど、じつは「自分のため」という制約は自分一人で完結してしまうせいか、なまけやすい環境であると気づいてしまった。自分のために、ができないから、弱く、なまけものだなぁとさらにつくづく感じてしまうわけで。
そういった意味では、他人を介し、不特定多数とまではいかず、顔の見えるかたちで「他人のため」あるいは「他人の目を気にして」放出できるのはさいわいだし、その意識からスイッチが押されて動きはじめられるのはうれしいものだ。つまりは、この交換日記は、「頭でっかちな自分をもうちょい書きないよ」と背中と放出スイッチを自然と押してくれるプラットフォームになりつつある。重ね重ねうれしい。
まあ本日も散文過ぎるのはご愛嬌ということで。
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