構造でものを考えるようになったのは、いつからだったろうか。

惰性と迷路

おそらく、小学生のときからではなかったか。横浜から、母の故郷である伊平屋島という沖縄の離島へ引っ越してから、すぐに文化のギャップになじめなかったぼくは学校に行かず海にばかり行っていた。釣り糸をたらし、ぷかぷか浮かぶウキを眺めながら、物思いにふけていた。一番最初は、自分のことばかり考えたいたが、いつの間にか視界に入ってくる水平線がどこまでも続く海に感化されてか、もっと広い世界のことを考えるようにようなり、自分の小ささを小学生なりに気づいたものだった。

中学生になり学校の小さな図書室で見つけた『子どもが育つ魔法の言葉』という本を読んだ。冒頭に書かれた「子は親の鏡」という詩には、「けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる」「とげとげした家庭で育つと、子どもは乱暴になる」などの言葉が並んでいた。この本は、自己解剖書にもなりえると思って、深く読み始めたと同時に、「いじめっ子がいじめっ子たる理由がちゃんとあるのだな」と何か人を捉えるときの基礎がこのとき確立したように思う。子と親の関係、言い換えると、家族は小さなコミュニティであり、家族であり、そこにも一つの構造があるのだと悟った。

高校では、倫理の授業にはまった。先生との相性もよかったからかもしれない。心理学、哲学、宗教、自分の興味あるものが重なる教科だった。そして、構造主義というものに出会う。あのとき、何をどう感銘を受けたのかは覚えていないが、ヴィトゲンシュタインにえらく惹かれた。本当は、上智の哲学科に行きたがったが、私立だったので諦めた。考えることは、言葉から始まる。ソシュールの存在に思いを馳せ、どうにか東京外国語大学の門戸を叩くことになった。

大学では、引き寄せられたのか、比較国際教育学を扱う研究室に入り浸っていた。ゼミの講義で「文化的再生産」を扱うときがあった。再生産とは、ざっくりいえば、東大出身の親の子は同じように東大に行きやすい、といった階層は再生産される傾向があるというもの。ぼくがいた大学はほとんどの学生が親が公務員だとか医者だとかそういった人たちが多く、俗にいうお金持ちのエリートが多かったように思う。彼らが瓶に生けられた花だとすれば、ぼくの出自はは道草に邪魔くさく生える雑草だったわけで大学のときのなじめぬ閉塞感は確実にここにあったと思う。ただ、少なくとも、ぼくは沖縄という地域だとか、家の事情など、そういった構造からちょっと抜け出せた結果、あの大学に在籍してた事実があったことは確かだ。

アウトサイダーである立場が小さいときからずっと続くが、その環境が「構造」を意識せざるを得なかったのだろう。鳥取という辺境にいながら、目の前の集落のことと、もっと遠くにある違う世界のことを日々考えており、アウトサイダー癖は今も変わらない。おそらく、そういう星の下に生まれてきてしまったのだろうし、悲観するよりは、それを楽観して自分の役割を見いだした方が面白くなることをさすがにもう知っている。

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ふと脈絡のないことで気づいたのだが、もはや「目的が手段化している」わけか。というか、ぼくは目的の手段化を好む傾向にあるのかもしれない。

10月に行く秋田のとある拠点が目的地であるはずなのに、その行き帰りでばったり出会うかもしれないことのほうが楽しみになってしまっている。やはり見渡すのは、その周辺。周辺をのぞきたいがために、あえて目的を一度かまそうとしてて、つまりは手段化してるのだ。手段が目的化するという話はよく聞くけど、その反対もあるのだな。この最後の段落は、構造の話を書くのが目的で、最後のほうでパッと思いついたことだから、これも周辺の産物と言えるのかもしれない。

そして、周辺から飛び出てくるものにワッと驚かされたいのがぼくの人生である。

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