集中を削ぐものを削ぐことが、修行なんじゃないかって思ってる。最近では。
人間はマルチタスクは向いてない、とされてるのにマルチタスクになるようにハードが整っている。chromeブラウザは、いくらでもタブが開けちゃう。さらにはモニターを接続すれば画面が二つになり、同時進行で動かすものが増える。便利っちゃ便利なのだけど、言い換えれば、タブによってタスクを支配されることでもある。あっちこっちと目に映る情報に脳がハックされ、全く集中できていない自分に気づくと辟易する。
また、気づけば、なんとなしに「y」「f」と打ち込んで開いてしまうYouTubeやFacebookに飽き飽きしている。お前らを見ていたところで何も変わらねぇのにな! とわかってるくせに見てしまう。集中どころではない。パソコンに向かってる時間が1時間あれば、集中して作業する時間は10分もないんじゃないか。むしろその50分の集中作業を究めれば、書けるもの、つくれるものが一気に増えるんじゃないかとも思う。そういう意味で、ポメラの存在には感謝してる。
そうか、パソコンが、というより、wifiがいけないのかもしれない。つねにフライトモードで生活するくらいの気概が必要なんだろな。まあSNSについては、Facebookを止めるために動いてる(けど仕事上、中途半端に必要というジレンマのなか)、投稿するのは1週間に1度と決めちゃうとか、IFTTTなどを活用して投稿をうまく自動化しちゃうってのもありかも。とにかくタブを開いて、気にする時間、それによって削がれる集中を少なくしたい。
……みたいなことを今朝は寝起きの頭でぼーっと考えていた。
〈引っ張る〉(draw)ことが進行する過程そのもの
ってのは、点と線を扱う会社をやってみる身としてはグッとくる表現だ。結果でなく過程であるという-ing状態は、つねに未完成であるはずなのに完成ばかりを追う人間の性をつついてる気がしていい。生きてる間は、ずっと引っ張り続ける作業だと思えば、少しは力が抜ける。ちなみに、力が抜けたほうた線をうまく引けるよなぁ、とノートに書きこむたびに感じている。
意図的に描くものを決めて線を引っ張るというよりは、思うがままに線を引っ張って、それを誰かが描いてるものを解釈するとか、あるいは、メタな自分の目で「今描いてるのはこれなのかな」と全体像を確かめるくらいが、のびやかに暮らすにはちょうどいいのかもしれない。描こうとして描くものは、枠に囚われてるし、窮屈だ。
また、誰かが引いた線(ルール・体系)は基本シカトしちゃっていいよね、と考えることが最近はとりわけ多い。先人が悩んで悩んで引いてきた(境界)線がいくらでもある。その恩恵で世界と事象が捉えやすくなっている。だけど、線から物事を考えるということは、左脳をつかって物事を判断することで、一社会人あるいは地球人としては大事なのかもしれないけど、一個人の感覚をおろそかにしてることでもある。一度その線を取り払い、右脳をつかって自分で線を引く(もしくは引き直す)。自分の暮らしを、世界をつくり、そだてていくとは、主語の違う線との戦いでしかないのかもしれない。
抽象的なことばかりを書いて疲れちゃったので、ここらへんで。
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