書いていない間は、時が止まる。ただしくは、ぼくの時だけが止まってしまう。
一つのことで頭を悩まし他のことにも手を出せなくなるくらいに落ち着かないとき、突如、巨大なダムが建設される。新しいこと、やりたいことを日常に流し込むことを完全に遮断する。その間、仕事の奴隷になり下がり、できないことができないままで進んでいく無力さに飲み込まれる。能力でも体力(HP)でもなく、精神力(MP)の問題だけでできない、というのが特に問題で、仕事に手をつけさせない悪魔と日々格闘している。そうしているうちに、新たな仕事が降り注がれていく。ダムは、こういう“ハフトゥな水”だけは気持ちよく通す。ぼくは気持ちよくない。どんどん積み重なってゆく、作業作業作業。書く時間をとろう、でも、とれるわけがない、と気持ちが削がれていく。
しかし、そこも戦いなのだろう。
書いていないときは、自分の好ましい未来に向かって、一歩も踏み出せていない、そんな気分だ。まるで時が止まっていて、ずっとこの地に鎖でつながれて暮らしていくんじゃないかと不安ばかりが押し寄せる。一度、不安が湧くと、多重分裂しはじめ、脳から身体を浸食し、何も手がつけられなくなる。それは一日の最悪のシナリオである(月に数度は体験するので慣れてしまってる怖さもあるが)。
自分の時間だけが止まろうとも、世界の時は動きつづける。不思議と都会の時計は、数倍以上のスピードで動いている(いや、動かされている)ような気もする。その自分と世界のギャップにまた打ちのめされる。でも、だからこそ、たった一文でもいいから、文章に触れ続ける意思が必要になる。
○ 熟考と走り出し
投稿のハードルなんて、あるようでないものだ。ハードルうんぬんを考える暇あれば、書くことについて考えるか、そのまま腕を手を指を動かして書いてしまえばいい。
ポメラに向かって、文字を打ち込むことは、未来を勝ち取るための聖戦。だからこそ、奴隷状態であろうが、ひっそりこっそり書き続けるしかない。どんな言い訳も許さず、書いてゆく。それが、元メジャーリーガー・イチローのいう、ルーティンの強さなのかもしれない。一日のあれこれにブレずにこなすルーティン。むしろ、そのルーティンを守れるから、ポジティブにぶち壊せる一日のあれこれもある。卵が先か、鶏が先か。あ、最後の段落、急に横文字増えてアホっぽくなっちゃったね。
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