ラジオ聴いてると、知らないところで知らない人が知らない目線で生きてるんだなぁと実感する。

京都大宮から大阪梅田に向かう車両で、なんとなしに選んだラジオ「桑田佳祐のやさしい夜遊び」。音楽としてはときどきSpotifyに耳にするが、“今”の桑田さんの声に、しかも歌うというより喋るその語り口調、リズムに新鮮さを覚える。

自分がその人の(最新)情報を追っていないだけで、それぞれは勝手気ままに暮らしを営んでいるわけで、そういう未知のクロスロードとして音声メディアがあるのだと気づく。これはテキストだけじゃ伝わりにくい生感なんじゃないかと思う(どこかどう違うかについては宿題にしよう)。

そんなこんなで、大阪に着き、心斎橋での所用が済んだので、友人と待ち合わせる時間までを四ツ橋の喫茶店になだれこみ、空き時間で日記をつけることにした。外に出るたびに思うが、いつの間にか自分が淹れるコーヒーのほうがうまいことのほうが多い。自分の手でやることは、他人の(他の地域の)手を眺めることによって比較ができる。

爬虫類の脱皮と気晴らし

ヒョウモントカゲモドキを昔飼っていたのだけど、彼ら彼女らは脱皮の皮を自分で食べてしまう。「ただの自分」になることが脱皮であるとするならば、そのとき、同時にその皮を食べているのかもしれない。その皮は、見送ると決めた”昔の自分の一部”であるのだろうか。

トカゲにそんな習性があるとは知らなかった。自分の一部を食する。一体どんな感覚なのか。猟師が自身で撃ちとった動物を余すことなく食らいつくすのが殺した側の礼儀/敬意である。そんな考え方もあるけど、脱皮が「過去の自分を殺すこと」とするならばたしかにその皮は自身をしかと受け止めるために食したほうがいい。命を奪ったのにその命を無駄にする。そうならないための自己寛容が大事なのだろう。

気晴らしがヘタだとまじめだと思われるような気がしてきた。実際、おれはよく「まじめだね」と言われるのであるが、それは気晴らしがヘタであることも関係しているように思う。

学生時代に持っていた“まじめ”コンプレックスは、水木しげるさんの「なまけなさい」という言葉の一撃で解決した。ああなるほど、そのまじめさに乗っかればいいだけだ、「まじめに、なまける」をやればいいだけなのだ、と腑に落ちた。だから、まじめと気晴らし、共存しえぬ二つの言葉と所作もどこかでまざり溶け合う瞬間がくるのではないかと思ってしまった。

今ふと気づいたが、「まじめに、なまける」は『訂正する力』の冒頭で記されていた「脱構築」の姿勢そのものではないか。まじめに対抗するべく、「まなける」「ふまじめでいよう」という真正面からの批判ではなく、まじめさの構造に便乗しつつ、その中に生まれる営みに働きかけ、構造を再構築に迫るためのアプローチ。自分はいつの間にか小さくジャック・デリダしていたわけか。今後はそのような現象を“デリダる”と命名しようかしら。デリヘルじゃないのよ。

デリだっていこー(しまっていこー的なあれで)。

p.s. ぼくもp.s.が乱雑になってきました。とりあえず(観る・読む・聴くなどの)コンテンツのメモみたいなものがここなのかなという雑感です(何もかもが“雑”すぎちゃってますね、それもいいのですが)。とりあえず、一昨日は『笑いのカイブツ』、昨日は『市子』を観てきました。余力があれば『PERFECT DAYS』観てから鳥取に戻ろうかと。あとひさびさにシャッフルせずにMr.Childrenのアルバム『IT’S A WONDERFUL WORLD』を聴き流していたんすけど、一曲目から順番に聴く意味みたいなものを教えてもらったのはこのアルバムだったんだよなぁと思い出しました。『overture』からの『蘇生』が好きすぎる。