エロを追う、とはなんなのかなぁと考えていたところ、今まで微動だにしなかったものの中に艶を見出すことなのかもしれない、という言葉が浮かんできた。なんらへん鉄もないものを錬金術で鉱石に変えてしまうほどの曲芸。もしかしたらエロも日常の中の非日常なのではないかと思うと、どれだけ日々にロマンが詰まってるだろうか。くだらないことを思い付いたもんだ。とは思い付いてしまったのだからしょうがなく、それも含めてあなたですよね?と問い詰めてくるひろゆきじみた存在がおれの中にはいるようだ。平和だ。

自分なりのアクロバティックさ

なんかそういう地味なことをちょこちょこやっていって、気づいたら変わっているのかもしれない。

こういった文章に出会うと、毎度ながら、くどいのではあるが、段差を感じることなくいつのまにか登れている「スロープ」が大事だよなぁと反芻してしまう。『終わりなき旅』みたく、聳え立つ壁を乗り越えていく様も決して嫌いなわけじゃない(今でもジャンプ漫画に没頭できるくらいだ)けど、ガッと這い上がっていくのではない「なだらかさ」があるほうが好ましい。

ある種、ゲーミフィケーションのような手法は、その遊びと学びをスムースに接続するなだらかさがあるように思う。今のおれの立場上だと、自分の教科書としてよりも、他者にむけた企画としてスロープを考えることが多い。無茶にハードルを上げたり、鼻息荒く意気込ませることなく、ほわほわっとした入口から始まり、出口を出るころには不思議とちょっとマッチョになっている仕掛けが理想っちゃ理想。それは甘やかしにも捉えられるかもしれないけど、本質的には「(変わりたいなら)変わる」ことが大事なはずなので、三日坊主阻止コンテンツをつくるべく脳みそをフル回転させる。まあなんだかんだで最終的には、本人の意思が関わってはくるとは思うんすけどね。

一方で「なだからさ」を自分に向けるとするならば。数年前までは没頭のための「情熱」が必要なのかなぁと思っていたのだけど、最近ではむしろ省エネなんだけど進歩を感じられる「平熱」で取り組めるといいねぇとなっている。情熱よりも平熱。「好き」とか「嫌い」とか、「やりたい」とか「やりたくない」とか、そういう感情など一切入り込む余地なく、平熱でスーンとやってのけれちゃうこと。平熱プロジェクトをもうちょい整理してみようかしら。

p.s. 『PERFECT DAYS』観てきました。日常の中の非日常、既知の中の未知、というのが風景の中にある「木」という表現に込められていました。ポッドキャストでも話してた『静かに生きて考える』の内容にも通じるんじゃないかと思ったので、えりさんにはぜひ勧めたい作品です。『さみしい夜にはペンを持て』は時間が経ち、内容だいぶ抜けてきたタイミングなんで目次をもとに読書ノート付け直してみます。最近、読みっぱなしが多いので「何度も噛んで味わう」のもやってみようかと感じてますし、そういう読み方するにもちょうどいいのがこの本のような気がしています。