京都大阪から戻ってから1週間が過ぎ、またナイトライフが定着してきた。「ナイトライフ」と言っても、都会でイメージするそれとは全く別物であり、田舎の古い家でただただ夜ふかしを繰り返しているだけである。風呂で長湯をしたり、本を読んだり、映画やドラマを見たり、ゲームをしたり、考え事をしたり、そのついでに文章を書いたり。今は最後の「文章を書いたり」の真っ最中である。

まあ夜が好きなのだ。血気盛んになってしまうのだ。小学生のときからそれだったから、もう筋金入りといっていいだろう。ちなみに、その頃はほぼテレビゲーム(主にRPGもの)をひっそりとやっていた。小学6年生の修学旅行出発前夜ですら、朝6時くらいまでテレビに向かって集中していた記憶がある(そのせいでメガネライフがやってきたわけでもあるが)。

朝は、とういうか、昼も含め、明るいうちは、家族でもそうじゃなくてもまわりに人がだれかしらいて、自分以外の音を感じながら過ごさないといけない。けど、夜になると、みんな活動停止してくれるから、静けさとともの「おれだけの音の時間」になる。自分が動かしたもの反応した音しか起きない。それがなんか好きだったようで、今だって起きてる理由はほとんどそれに尽きる。起きたくて、夜を自分の世界に飲み込みたくて、闇に包まれ、わずかな灯りを見つめて過ごしている。

しかし、やがて4時、さすがにそろそろ瞼は重たくなってきた。

スロープ混じりの夜の散文

それがスロープであると認識できないのが理想だなあ。階段だとどうしても「登ってる」「上がってる」と意識するし、筋肉を使うことになり、身体が張っていきそうである。そうではなく、実はスロープで少しずつ”上がって”いるのだけど、本人は「上がっている」という概念から距離を置いているというか。

いやーほんとにそうだ。認識できない「スロープ」がいい。本人が認識できてしまうスロープはちょっと甘えにも見えてしまうんだよな。だからむずかしいのが、上手くなりたい・知識を身につけたいものがあったとき、自分ではデザインできるわけがないということよね。俯瞰スロープはつくれない。この日記のように、書き終わったあと(直後でも数ヶ月後でも)に登れた感覚を掴めていればいいだけのだ。つまり、本当にほしいのは棚からぼたもちスロープなのである。求めるけど求めない。とんちのようなリフトアップがお好きらしい。結局、「後先はあまり考えずに、やってみる」の蓄積になるってことかいな。

意識をあえて張ってみれば、今日一日にそれとなしにやってきたことは、未来のなにかにつながる傾斜になってるかもしれないわけだ。どこに進むか、どう紐づくかは正直よくわからんが、無意識でも小さいことでも自分で「決めた」ことがいつの間にかなにかを型どり結晶化していく。じわじわ気づかず水面下で進んでいってくれている、AIが代わりにやってくれてるみたいに。それってええやん。

一昨年からちょこちょこ東京や京都に足を運ぶようになって気づいたことがある。田舎でのんびりしょうもないことを繰り返しただ暮らしていたと思っていたけど、地域特有ともいえる「あれこれ幅広くいろいろやる」のスタイルで数年やっていたら、ある分野において都心部で似たようなことをやってる人と比較して「おれ、だいぶマッチョになってたんだなぁ」と。ゆっくりじっくりとした暮らしそのものがスロープを成していた。そういうの、そういうの。

意識はしすぎたくないけど、意識してないふりして意識しながら、おれはおれのスロープちゃんを追っかけようと思う。

p.s. たしかにこれまで「上がった」と実感してきたことは、ブログや日記のような「書く」ことが絡んでような気がします。書いたおかげで、たどりつく感覚・思考はあったし、それを読んだことがきっかけで、たしかめた技術の進歩はありました。/ あ、水の摂取量を増やすはいつの間にかぼくもやるようになりました(なぜなら太ってきたから)。ついでに米を食べる量もほんの気持ちぶん減らすようになりました。飯食って、バスタブにのんびり浸かって、火照った体でぐいっと飲む水、超うまいっす(大山の水だからなのか?)/ AIについて考え、なんだかんだでまた星新一が気になり『きまぐれロボット』に手を出し始めました。ちなみに、NHKオンデマンドにあった『星新一の不思議な不思議な短編ドラマ』、あれめっちゃよかったです。『窓』の奈緒が色艶ありすぎで。