丑三つどきに寝て、昼前に起きるような生活にいつの間にか戻っている。これは早起きできなくて……という嘆きではなく、むしろ身体が求めてる夜型のリズムを取り戻せた!という勝利の記録でもある。いつの間にか、考え方が改まっていたようだ。結局のところ、ここ3~4年は仕事のあれこれに引っ張られて、午前中に動き出さなくちゃいけなっただけで、寝られるだけ寝たほういい。水木しげるの睡眠力のイズムが体にちゃんと溶け込んできた、いや、むしろ内から溶け出したのかもしれない。

そういう意味では、自分の性質に抗うでなく、身体に寄り添い、労わるようになったのが、自分にとってのおじさん見習い研修の成果なのだろう。ちなみに、おじさんがバタフリーとするならば、青年がキャタピラーで、おじさん見習いはトランセルというところだろうか。さらにちなみにいえば、ぼくのポケモン知識は、初期で止まっている(黄に憧れつつ緑をプレイしていた)。

鈍感だったものを感じとる

「JUST POOH」という言葉が不思議と気になった。どう訳すのがベストかわからないけど、「ただのプー」とも訳せる。馴染み深い気がした。何者でもない、ただのプー。これは自分が好意を持って読んでいる『コジコジ』でコジコジが「コジコジはコジコジだよ」という言葉を発するのと近しい。だから馴染み深いのだろう。

自分を自分で規定しすぎない、自分は自分としての歩みしかしていけない。これはスタンダップ・コメディにおける「自分にしか話せない笑い」に通ずるんじゃないだろうか。

毎晩布団に入って、目を瞑るまでに「ただの」という修飾語が自分にもついてることを忘れぬように念じていきたい。

「JUST OMIJA」。からの「JUST DO IT」。

そういえば、特命係長「只野仁」の「ただの」は、擬態のための「ただの」だったのかなぁ。

p.s.  『浅草キッド』観たときに、大泉洋は俳優だと思ってたけどいつの間にか役者になっていたんだ、申し訳ないと思った。そして、柳楽優弥はまさに役者で、見てくれは全然似てないのだけど、北野武に見えてくる凄みがあった。表情(特に目つき)、仕草、喋り方を演じ分けれる役者たちは、どんなトレーニングを積んでるのかが純粋に気になる。スタンダップについては本の中でも紹介されてたロニーチェンの『アメリカをぶっ壊せ』を少しずつ今観ていて「中国の新年の挨拶いじり」は、メタで日本の文化を観たらなんか見つかるかもなという視点をもらった気がしたやつです。