えりさんの「夕食視聴コンテンツ」みたいなもので、家にいるときのご飯どきは、動画を観ながらパクつくことが多い。今日もなんとなしにYouTubeを流していた。すると関連動画で「ミスター・ビーン」が出てきたのでクリック。知らなかったけどちゃんと公式チャンネルがあったのかぁと感心。

小さいときにテレビで流れていた彼の姿をおぼろげに覚えている。あの頃は、志村けんの海外版とくらいに思っていた。今あらためて観てみると、ベタな笑いの連続なんだけど、「ここで笑かしにくるぞ!」と予想できてしまうのにちゃんと笑える凄みがある。そして、ミスター・ビーン演じるローワン・アトキンソンは、「世界のノンバーバルな笑い」をつくる人物として五本の指に入るコメディアンなのだと知らしめられる。

と、あたかも知ってたかのようにローワン・アトキンソンと書いたが、じつは人物名をはっきりと認識したのは今日が初めてで、「ミスター・ビーンの人」くらいにしか分かってなかった。wikiを読んで、なるほどなぁと。ミスター・ビーンを演じていただけでなく、脚本にも携わっていたようだ。えてして、やはり脚本にも関わるのは、おもしろいものをつくるための情熱のようにも思う。

そして、「ミスター・ビーンの人」と安易に書いたが、「〇〇の人」と思ってもらえる作品があること自体がうらやましくもある。「〇〇の人だよね」というレッテルを貼られるめんどうくささと悔しさが出てくるかもしれないけど、それを塗り替えてやるぜ!というものづくりの入り口にすら立てていない自分は、これからどうなっていくのだろう。想像できないが、想像できないからこそあの手この手と試せる余白があるっぽいな。

空気注入よりも器の強化

ベタの習性は個性的だけど、存在自体はレアではない。

くくられがちだけどユニーク、ユニークなのにくくられて埋もれがち。そんな解釈もできて、なおさらベタ(魚)が気になってしまった。

次の一手を考えるときの表現として「半歩先」「一歩先」とかあるけど、この「半歩先」が「あるない」に近いのかもしれない。先取りしすぎると「ないない」になってしまい、周りがぽかんとしてしまう。でも半歩先くらいだったら、「あるない」になってまわりをつかみ、「ない」を見せるチャンスが生まれる。

まさに田舎のようなやや閉じた地域でなにかをはじめるときほど、この「半歩先」の感覚が大事になってくるだよなぁ。置いてけぼりにしないための、理解できると理解できない(だからちょっとわくわくする)の絶妙なバランスづくりともいえて。

ふくらむ風船は、いつか割れてしまう。ふくらますスピードの話というよりも、その器の話かもしない。風船じゃなくて、ちょっと厚みのあるビニール製にしてみるとか、布のクッションにしてみるとか。そういえば最近、無印が空気でできたソファを出したじゃないか。あれくらいの厚みがあってもいい。

たしかにふくらむ勢い、さらには空気圧を支える器の強度は、考えもの。

自分の場合、器の素材がどんなものかまだ掴めてないけど、やろうとするときは一気にスピーディに終わらせようとする癖がある。でも、それで割ってきてしまった風船をたくさん知ってるから、今は勢いよくふくらませた風船を、ときどき吹くのをやめて「空気を抜く時間」も持つようになっていた。

空気を抜き、息継ぎをするその時間で、引き続き同じような勢いで吹いていくのか、いや、もう吹かなくてもいいんじゃないかとかを判断し、割れる前で考える余裕ができてるっぽい。

力みやすい分、力を抜くための意識が30代に突入してからはずっとあるし、力を抜いてみたほうがパフォーマンスが上がる、という特性もなんとなくわかってきた。それでも、力みがちなので、頭の片隅に風船をぷかぷか浮かばせながら、また毎日を過ごしていきたい。

p.s. ChatGPTをうまく使っての執筆ができるようになれたら、と最近から少しずついじるようになってきた。取材時の音源の書き起こしから、違和感ない文章校正をAIに頼めるようなお願い上手な男になりたい。それと、ネタ出しのためのAI活用とか。まだ課金するまでには至らないけど、年内にはラーニングして、自分なりのアナログとの共存方式を見つけたい。

気になってた『世界は経営でできている』は結局ポチってしまった。それと、あえて方向性として定める人がいるとすれば、やっぱり、いとうせいこうさんだなぁとつくづく思い、読みっぱなしで本棚で眠っていた『今夜、笑いの数を数えましょう』を引っ張り出してきた。この本でのせいこうさんの対談相手がみんな最高なんだよなぁ。