おいらはなぜこんな時間まで起きてしまうのか。AM5:34。さっきまでお湯を張った浴槽に30分ほど浸かりながら、Spotifyで数曲を選んで腹に力を入れた一人カラオケをやっていた。その前には急にパスタを茹でてはデミグラスソースと合わせ一皿、二皿と平らげた。

さて「なぜ」に戻ると、それは前にも「一人でふかく考える時間」うんぬんをぐだぐだ書いてた気がするが、理由はもっともっと単純なのかもしれない。「体力が有り余っているから」なんじゃないか。おれはおれが思っている以上にまだ元気なのか。

そういえば、つね日ごろ「おれは元気ではないけど健康ではある」と思ってるし、都度都度まわりにも吐くようにしている。だけど、リアクションを観察すればするほどに、そういう感覚って共有できないもんかなぁと項垂れることが多い。しかし、ついに見つけてしまった! 『元気じゃないけど、悪くない』。中身はまだ未知数なのだけど、タイトルだけでもうすでに通じ合っているような気になれた。これは買おう。買うしかないじゃないの。

枠と質、感情と行動

寝る前の小説読書が習慣化したようで、「とりあえず読み進める」ということができるようになってきた。

うらやましい習慣。読書については、まだばらつきがあって、むやみやたらにネットから入ってくる情報を抑える、しっとりじっくり考えるモードに移行するためのスイッチとして本を手に取るかんじが今のところ多い。

寝る前については、「読む」よりも「書く」が定着してきたかもしれない。けど、やっぱりできれば書いたあとに読んでから寝るまでに頭で情報を漂わせながら眠りに堕ちたい。

社会人になってから自己啓発系をいろいろと読んだ記憶もある。

同じく社会人になってから急激に自己啓発本を読みはじめた記憶がある。けど、今だとあまり手を出そうと思わなくなった。たぶん、まあ「結局、書いてあることって同じでしょ?」とある程度の自己啓発本を目にしてきたらこそ斜めに構えてるから。

同じことで復習になるのであれば、頭の学びじゃなく、実践的に体の学びにしちゃったほうがいいやと体験に手を伸ばしがち。百読は一験にしかず。

それに、自己啓発ってのは若者にとっての通過儀礼なんだとも思うし。そういうのできれば早めに終わらせられるといいよね、と今関わる10~20代に対しては感じることが多い。

とりあえず、その世界をまだ歩き続けてみようと思っている。目的地ありきの移動ではなく、散策であり、散歩だ。散歩にだっておもしろいもなにもない。散歩は散歩だ。

考える教室』でつまんだ、デカルトのいう「世界という書物」なんだろうな。この感性は。生きてしまっている間は、ずっと実験、ずっとフィールドワーク、うろうろしながら楽しんでいたい。

じつのところ、最初からおもしろいものなんてものはこの世に存在しないんじゃないか。自分という人間がおもしろがっているだけで。そのおもしろがる視点の違いが、個性なだけで。

現代では、おもしろいものを押し付けられ、大衆文化的に強要されるような社会圧があるのもたしかなんだけども。人間に生まれコミュニティに溶け込み社会人になっていくはずが、生まれてこのかたずっと社会人という結果が、何をおもしろいとするか感覚が鈍った”おもしろい音痴”を生んでしまうだろうか。……なんだよくわからない話になってしまったぞ。

何はともあれ、これを書き終えたら、すぐにテントに飛び込み、布団に潜り込むのだ。また読書を放棄している。やれやれだぜ。

p.s. 10年前に読んでうすらと記憶にある、小林賢太郎の『僕がコントや演劇のために考えていること』をがっつり読み直している。すると、びっくりするほど今でも新たな気づきがあり、むしろ前より言葉の浸透度が高いようにも思う。1月からずっと試行錯誤してる感覚ばかりがあるけど、今はまさに「つくり方をつくる」ための時期だから、そりゃあ右往左往するわなと納得しちゃいました。