うんちみたいな、スライムみたいなものを何度も口にしながら書きはじめた。ハーシーのキスチョコ。幼少期の沖縄の思い出には、ときどきこのお菓子が登場する。引っ張ってくださいと言わんばかりの紙に従うと、釣られて銀紙が剥がれ、個性的なかたちのそれが現れる。

基地が近かったせいか、アメリカの文化も生活に入り込んできていた。その一つに食があって、タコライスなんかもそうなんだろうけど、こういったお菓子のほうがガキだった頃の自分への影響は大きかった。沖縄を出てから、地元スーパーで当たり前に置かれていたものが、都内では輸入雑貨店などで扱われる珍しいものだったと気づく。

先週、実家から段ボールが届いた。ポークやルートビア、三枚肉、アーサなどが大量に詰め込まれていた(もし送ってくれるなら、とリクエストしていた)。その中に、特にお願いしてなかったけど、数袋入っていたのが、キスチョコだった。銀紙の通常盤だけでなく、ヨーグルト・トリュフ・ストロベリー・モカ4種の味が入ったバラエティパックもあった。これは初だ。時を経て、いろいろ変わったんだなぁと感心してしまった。うまあま。

隠居、承認欲求、分人

「つかみ」はマーケティングにも似ているように思う。もしかしたら、社会との接着剤でもあるのかもしれない。もしくは家の内装よりも玄関をどう演出するか、という話かもしれない。

そう、社会との接着点をどうつくってくのかが、これから苦戦することなんだと思っている。社会に共有して伝わるものというのは、いわば、「あるある」ネタなのだろう。逆に、自分の思い・考えを一方的に伝えるのは「ないない」である。自分だけがおもしろいと思ってるだけではダメなわけで「ない」を「ある」に変えていかないと伝わるものも伝わらない。

ふと思い出すのは、漫才師・笑い飯だ。どこかで読んだ本人談で、「とんがってたときは、ひたすら、『ないない』のネタをやっていた。だけど、とある人のアドバイスで、『あるない』に変えたら、自分たちの笑いがとどく範囲が広がった」というニュアンスの話をしていた。ないからあるに変えたのは、たしか「設定」だった。

これは自分なりの分析として書くのだけど、たとえば、M-1で100点を叩き出した伝説のネタ「鳥人」なんかは、まさに「あるない」だったように思う。「縁日の出店でみかけるヒヨコ」という「幼いときの祭りの思い出」は、ほとんどの人の記憶の中に「ある」ことだ。だが、首から下は人間で頭は鳥という「鳥人」は、ありえ「ない」生き物で、自分たちの世界観を表現し、笑いをかっさらっていっった。

「ないない」だったものを「あるある」に変えるのは意味がない。変わるのは一つだけでいい。「あるない」だ。

自分の(営業などのコミュニケーションにおいては自己採点でわりとできてると思うのだけど)文章の弱点はここにあるような気がしてる。「つかみ」のための「ある」をどうあげていくか。マキタスポーツ著『一億人総ツッコミ時代』に記されてた言葉がリンクするなぁ。

「メタ」的に物事を見るのではなく「ベタ」に生きろ。

ずっと避け続けてきた、いや逃げ続けてきたベタに向き合うときがきた。ふぅ、課題は山積みだ。しかし、そこに伸びしろがあると思えば、実験だらけで好奇心をくすぐられる。

p.s. 何かを観たり読んだりする時間よりも、自分の出力のために時間がとけていくのはうらやましいです。インプットばかりしてる自分に辟易してしまう瞬間がたまにあるから。だったらつくれよ、と感じちゃうんすよね。/ ぼくも最近になって「経済」を意識した本を買うようになったような気がします。特に、経済の中にある「組織」「経営」は実践にも重なり、吸収しやすい状況があるからか。今ポチるかどうか迷ってるのは『世界は経営でできている』です。はあ、またインプット対象みつけてしまったぜ...。